あなたは「衝動買い」しますか?私たちがお金を払っている“本当のもの”

衝動買い 女の子 frankie cordoba

実は私、衝動買いが苦手である。……というと、「自慢!?」と怒られてしまいそうである。だけど、衝動買いが苦手なことは真面目な話、ちょっとコンプレックスでもあるのだ。そりゃ稼いだお金を何も考えずに湯水のごとく使う浪費家よりはマシだと思っているけど、お金の使い方に「衝動」がないのは、余白がないというか、隙がないというか。

たとえば私は海外旅行によく行くのだけど、自分のためのお土産ってほとんど買わない。本当は衝動のままに、バリ島で派手なワンピースを買ってみたり、モロッコでエスニックな食器を買ってみたり、イタリアでかわいい雑貨を買ってみたり、韓国でコスメを買いまくったりしてみたかった。でもそれらを持って帰ったところで、自分の家に置いてみたときや、実際に使うときのイメージがわかないことが多い。だから結局は悩んだ末に買わずに帰り、私の部屋には今日も、無印良品の小物ばかりが並んでいるのだ(まあ、無印好きだからいいんだけど……)。

色とりどりの雑貨やコスメを並べて「買いすぎちゃった!」と照れている女の子が、私は少し羨ましい。彼女は私と違って、きっと胸のときめきに忠実なのだ……と思う。

最悪だった温泉旅行を、幸福な記憶として振り返る

角田光代さんの『しあわせのねだん』は、角田さんがちょっとした「しあわせ」のために払った、お金にまつわるエッセイである。ねぎそば390円、電子辞書24000円、メキシコ旅行のキャンセル料30000円、などなど。なかでも私が特に「いいな」と思ったのは、角田さんがお母さんと一緒に行った旅館の代金である、9800円×2だ。

この章のタイトルは、「記憶」とある。そう、私たちはお金を、単純なモノやサービスと引き換えに払っているのではない。旅館の代金9800円×2は、今はもう亡くなってしまったらしい角田さんのお母さんとの思い出のために。カフェで払うラテ代は、誰かをゆったりとした気持ちで待つために。モノやサービスにお金を払う引き換えに、私たちは必ずそこで、何か抽象的な「気持ち」や「思い出」や「刺激」を受け取っている。

ちなみに、角田さんがお母さんと一緒に訪れた旅館は、水回りは不潔だわ、料理はまずいわで散々なところだったらしい。お母さんはお金を出した角田さんに遠慮せずズケズケと文句をいうので、角田さんは、無駄遣いだったとその旅館に払ったお金のことを後悔した。

だけどそのお母さんが亡くなったあとに、角田さんは、その旅館での思い出を振り返る。そして、子供の頃、自分も母親に対してまったく同じことをしていたと思い当たります。お金を出して旅行に連れて行ってもらっているのに、お礼も言わずに、やれ退屈だの、やれごはんがまずいだのと、文句ばかり。そして、母親が亡くなる前に親と子の役割交代ができて幸福だったと、最悪の思い出として記憶されていた温泉旅行に思いを馳せるのである。