「年相応」という言葉の違和感
もう、いっそのこと年齢という概念を辞めにしませんか。
そう私が言うと「おばさんの焦り」だの「ババアの戯言」だの言われてしまうだろうし、そのように考えられる一面ももちろんあるのだが、もう辞めにしませんか。年齢を理由に何かを諦めたり、年齢で人を判断したり態度を変えたりすること、そもそも年齢という概念を。
少し前に、自分が子どもっぽい、年相応の服装がわからないという「はてなダイアリーが」話題になりました。私は仕事をさぼり、トイレの個室で「へえ」と思いながら読んでいたのですが、確かに私もこんな感じの大人になると思っていなかった。というか、年齢を重ねていくと、落ち着いた服装や言動ができる「THE☆大人の女性」に私もなるんだと信じていた。
しかし年齢を重ねても、現在は派手髪、派手服、ピアスも5個開き、スニーカー出勤、メイクもカラフルだし、社会人としてのマナーは身についていない気がする。まあ、これは現職を含め勤めてきた会社がどこも服装髪型自由で割と寛容だというのも大きいと思うが。とにかく、思っていた大人像となんか違う。今になって思えばそりゃ本人の変わるための努力や意思がなけれれば変化なんて訪れなのは当然と言えるが、大学時代からさほど変わらないまま大人になるだなんて、結構予想外の結果だ。
あれ、もしかして私も子どもっぽくて年相応の服装がわからないのかも……少しでも油断するとどこからともなく不安が襲ってくる。
いや、でも違う。私は、今の自分のスタイルが好きだ。直観でかわいいと思ったものを常に身に着けていたい。自分の好きなものを周囲に置いておくだけで、少しだけ自分のことを好きになれる気がする。いつもよりかっこいい自分でいられる気がする。周りにどう思われようが関係ない。そういう信念というか、こだわりを持って自分の手の届く範囲には好きなものを揃えているつもり。なので、今後も年相応ではない、大人の女性になりきれない見た目でい続けるのだろうなと思う。
この「年相応」という言葉がどうも気に食わない。この「年相応」って、「このくらいの年齢のときはこういう見た目で、こんな風になっていなければならない」という昔からあるたイメージだと思うんですよね。今の時代に合ってないんじゃないでしょうか。
昔からのイメージというのは、例えば結婚と出産をすることが女の幸せだとか、25歳を過ぎたら行き遅れとか、女は家庭的で控えめであるべきとか、そういうことだ。私たちの思う「年相応」のイメージは突然出来上がったものではなく、生まれてから周囲の大人を見て培われたものだ。
「別に結婚しなくても出産しなくてもいいよね」「自分が楽しいのが一番だよね」という思想が支持されるようになったのも最近の話で、結婚していなくても変な人扱いされないのもここ5年10年の話であるように思う。この最近の思想が「年相応」の言葉の意味のなかに含まれていないように感じる。アップデートできていない。これだけ多様化した社会になっているのに、この言葉には選択の幅広さが含まれていないのだ。なので、既存の女性という概念をぶっ壊していきたい派の私は「年相応」を気にするべきではない、そこに反抗していくべき、という考えに至っている。
もう、そろそろ辞めませんか、年齢という概念を。RADWIMPSの野田洋次郎さんも「あなた今 歳はいくつ? 俺がいつ死ぬか知りたがる皆さんです」と歌っているし。相手が何歳だろうとどうでもよくないですか。結婚も出産も転職も、年齢制限があるものかもしれないけど、個人によって差もあるし、周りの人が気にする必要ってなくないですか。敬語も気遣いも、初対面の相手には当然にしても、その後は個人間の関係性によるもので、年齢ってあんまり関係なくないですか。
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