ひとり籠もる中で気づいたこと
ずっと家に引きこもる生活が続いている。外に出るタイミングと言えば、週に2、3度ゴミを捨てに行くとか、足りなくなった洗剤や少しのお菓子を買いにドラッグストアに行くとか、お豆腐や野菜、それからたまに奮発してちょっといいお肉を買いに不愛想な店員しかいない歩いて3分の小さなスーパーマーケットに行くとかで、1日のほとんどは8畳しかない独房のような部屋で過ごしていることになる。
毎日変わり映えのしない生活に飽き飽きしたり、とてつもない寂しさが襲い掛かって特定の誰かに対して愛しさに似た気持ちが芽生えはじめたりしたのかというと、やっぱりそんなことはない。むしろ、人とコミュニケーションを密に取ることで知る自分の至らなさがぼやけるので、なんとなく精神的に健全でいられるような気さえしてくる。ここ最近の私は、死にたくなったり、何か大きな存在に頭を下げ続けたくなるような気持ちになったりしない。はっきり言って、調子がいいのだ。
毎日自分がきっちり立てた計画を遂行し、頭のなかのTODOリストに線を引いていくのに忙しい。思いつく限りの色んなことがしたい。出来れば、誰とも会わずに。もしかして、色々な人が私を忘れてしまったりするのだろうか。それは冗談だとしても、誰とも会わず、人と連絡を取ることを一時停止してしまったら、私はどうなるんだろう。少しだけ興味がある。
では、一切誰とも話さずに陰鬱とした毎日を過ごしているのかというと、そういうこともない。会社のミーティングは別にしても、家に籠るようになってから話し相手が2人もできたのだった。
ひとりは近所の花屋のおばあさん。3度くらい花を買いにいくうちに顔を覚えられ、世間話をするような仲になった。もうひとりはカレー屋を営むインドから来たおじさん。彼はインド国内で有名な宿の元スタッフで、共通の話題で話に華が咲き、連絡先を交換し、今月末行われるラマダン前の礼拝を見るためにモスクに行く約束をした。(でもこれは、世間が深刻化する前の話なので行けないと思う。)
人からよく「なんでそんなに知り合いが多いの?」と言われる。でも私からすれば人となんとなく知り合いになるのは自然なことで、人から興味を持ってもらえる方法をなんとなく分かっているからだと思う。適切な距離を保ちながら、明るく振舞って、さも興味があるように人の話をよく聞いて、親しみやすい頷き方をして、大げさに笑ってみたりする。年齢を重ねていくうちに、間違いない対人用の装備を十分に揃えられ、その手順に沿って対話をしていけば、なんとなく上手くやれる。
そもそも幼少期の私は両親が理想とする子どもになかなか近づけなくて、ずっとご機嫌取りのような、見えない正解を探すような態度を取り続けていた。人の表情の微々たる変化に自分は敏感であるような気がするのは、それも多少関係しているのかもしれない。
だからこそ、私は大きな社会のなかで孤立した記憶がない。ひとりでいることに抵抗がないというのも前提にはあるが、周囲の大勢の他人のなかで孤独を抱き、焦りを感じたことがない。なんだかんだ、私に興味を持ってくれ、気にかけてくれる人というのは常にいたような気がする。けれど、こうしてひとりで室内に籠っているうちに気付いてしまったのだ。本当の自分、みたいな存在について。
- 1
- 2