容姿で決まる世界を否定できないから…

大人になった今なら、私がブスであることを気にしすぎていただけだと言い切れる。でも、容姿ですべてを判断され、ボロボロに傷つく瞬間が、私には何度もあった。

幼い頃、母に「ブスだねえ」と言われて、笑われたことが何度もあった。
幼稚園の頃、遊んでいるときに「可愛くない子はここを通してあげない!」と同級生の女の子に意地悪をされたことがあった。
小学生の頃、「早く結婚しそうな子ランキング」「家庭的な子ランキング」「いいお母さんになりそうな子ランキング」に私の名前が入ることは決してなかった。私の名前が挙がるのは、いつも「個性的な人」とか「スポーツがうまい人」とかで、そこに名前が入らないことは初めからわかっていたけれど、その事実がじわじわと私を傷つけていたように思う。
中学生の頃も高校生の頃も、人の恋愛の話に頷くばかりで、誰かを好きになれず、そして好きになってもらえない自分は容姿だけではなくて、至るところが欠落していると思っていた。話したこともない男の子から突然メールがきたと思えば、友達全員がその男の子とやり取りをしていることを知っていて、「付き合えばいいじゃん!もったいないよ!」とからかわれたりもした。
大学生の頃の私は、「馬鹿にしてもいい人」というキャラクターにずっと収まっていたように思う。私のことを「かわいい」といってくれる人がいても、「女の趣味悪いね、B」専なの?(笑)」と私の目の前で馬鹿にされていた。

私がもう少しだけでも可愛かったら、こんなに悲しい思いをすることはなかったのかもしれない。たくさんの浅い傷が積み重なることも、自分に対してコンプレックスを抱くこともなかったのかもしれない。

たしかに、容姿は大切で、人を判断するための大きな材料になる。「人は見た目がすべて」と言われれば、そうなのかもしれない。かつての私がいた世界は、容姿ですべてが決まっていた。あの頃の私には容姿がすべてであった。容姿ですべてが決まる世界の存在を真っ向から否定できないからこそ、ときどき締め付けられるような辛さを感じる瞬間が私にはある

だから私は、どれだけ今生きやすい世界にいたとしても、昔の自分を少しも救ってあげることはできない。昔の自分が今目の前にいたとして、面と向かって「気にすることなんてないよ」「世の中、顔じゃないよ」と言ったところで意味なんてまったくないから、周囲の人に対して「人は顔じゃない」「コンプレックスなんて気にしなくていい」なんて、そんなきれいごとを軽々しく言えない。

Text/あたそ

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