絶妙なバランスによって、人とつながれる

いいところよりもダメなところの方が多い人を好きになったことがある。「なんで、こんな人のことを好きでいるんだろう」と何度も思ったことがあった。欠点ですら愛情を注ぐ対象だったから、会わない時間が長くなればなるほど気持ちは冷めていくはずなのに、私はきっとその人のことがずっと好きなのだと思う。テルコを通じて、そういう目線で見ていた。

葉子の下僕である仲原はどうだろう。そばにいられるだけでいいと思っていた。思い出してくれるだけでいいと思っていた。自分は満足できると思っていた。でも、だんだんとそれだけの関係では満足できない自分がどこかにいる。「別に好きになってもらえなくたっていい」なんて嘘。きっと好きになってもらえないと心のどこかでわかっているから、否定されるまで周りをうろついていただけだ。諦めの影に潜んだ微かな希望を持って。どこまでも純粋に葉子を思う仲原に、腹が立つくらい大昔の自分が重なる。

マモちゃんや葉子は、一見すると自分に尽くしてくれる人に頼りっきりで、人の気持ちをなんとも思わないようなクズに見えるかもしれない。けれど、結局は中途半端に優しいだけだ。相手のことを嫌いじゃないから、友達として・人としては好きだから、周りに置いてくれる。周りにいても迷惑がかからないから、特に否定もしない。ただ、それだけなのだ。
冒頭のシーン、風邪を引いたマモちゃんはテルコを呼び出して、色々な看病をしてもらうことになる。自分は「コンビニで適当に買ってきて欲しい」と伝えたはずなのに、マモちゃんが大好きなテルコはお手製の味噌煮込みうどんを作るだけではなく、一緒にスーパーで買ってきたカビキラーとゴム手袋でお風呂の掃除を始めるし、「ついでだから」とゴミ袋のなかを漁ってペットボトルのラベルをはがして分別をする。
その場で、「やめてよ」なり「そこまでしなくていいのに」くらいのことを言えたらよかったのに、マモちゃんは何も言わないでテルコを部屋から追い出してしまう。マモちゃんにはそんな簡単なことをテルコに伝えることができない。かなり残酷で不必要な優しさだ。でも、かなりよくわかる。自分の生活圏を荒らされる不快さも、相手のおせっかいに自分の本音を伝えることのできない気持ちも。
このワンシーンだけでも、マモちゃんにとってのテルコは、「(どうでも)いい人」の部類に入っていることがわかった気がした。いや、どうでもいい人だからこそ、無邪気な優しさを向けることができるのかもしれない。
この絶妙な性格の不一致があるから、テルコはマモちゃんに振り向いてもらえることはないし、マモちゃんはきちんとテルコの気持ちに応えてあげることができない。いつまでも2人だけで幸せになることができないのだと思った。

人との関係は、尽くす方・尽くされる方とか、振り回す方・振り回される方とか、どちら側になるのかがなんとなく決まっている気がする。
今思い返してみると、私は尽くされる方で、振り回す方だったように思う。友達も、恋人も、会社の同僚だってそうだ。でも、一度その関係性にがっちりハマって抜け出せなくなってしまうと、いつか必ず何かが終わる。ギブ&テイクの関係がなくなり、お互いの気持ちの帳尻がつかなくなって、少しずつ距離が遠くなっていく。絶妙なバランス、対等であること、持ちつ持たれつの関係性が築けるからこそ、人は誰かとつながることができるのだと思う。

愛ってなんだ? 私には、まだよくわからない。なぜ、人はひとりでは生きていけないのだろう。どうしても寂しさが押し寄せてきてしまう夜を迎えることがあるのだろう。この映画を見て、余計にわからなくなってしまった。
誰かを好きな気持ちだけで、ずっと生きていけたらいいのに。こんなに苦しい思いをするくらいなら、誰とも関わらないで、楽に生きていけたらいいのに。どうして、つらい思い出、悲しくて苦しい気持ちを忘れて、誰かを思ってしまうのだろう。

もういい大人なのに、ほんの一瞬だけ、今後もう私はひとりで誰のことも好きになったりしないのかもしれないな、と思っていた。

Text/あたそ

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