欠点に興奮してしまう、みっともない性について

欠点を恥ずかしいと強く思っている。できるだけ見つかりたくない。だから、その欠点をひた隠しにしようと努める。どうかバレませんように、見逃してもらえますようにと祈れば、当然心拍は上がるだろう。緊張で筋肉は力んで、呼吸は浅くなる。そのうち、じんわりと汗が滲む。垂れるほどではない。自分しか気づかないくらい僅かな水分が毛穴を満たすと、自分が少し膨らんでしまっているような錯覚を覚える。隠れていたいはずなのに、存在が大きくなってしまうこと。その事象は私の首を絞める。だからもっと呼吸は浅くなり、顔に熱が集まる。水分はいよいよ毛穴から溢れる。

あぁどうしよう。ただ立っているだけなのに汗ばんでいたら「どうしたの?」とか聞かれてしまうかもしれない。「なんでもない」と答えても、相手は納得してくれないだろう。そうなったらきっと相手は、私に何が起きているか探ろうとする。良かれと思って私をよく見る。そうしたら、見つかってしまうかもしれない。せっかく隠している欠点を、あなたが見つけてしまったら!

一人で想像した未来にもっと首が絞まって、呼吸の速度はほとんど犬。え、待って。今身体に起きている現象って、興奮と呼ぶんじゃない? 勝手に興奮しているなんて気持ち悪いなと思った瞬間、私に新たな欠点が生まれる。隠さないといけないことがまた一つ増える。なんなのこれ、どうしたらいいわけ? 途方に暮れながらもどこかで、そんな自分を面白くも思ってしまって、なんとなく、汗ばんだ自分を楽しんでしまう。

自分の欠点こそ、愛しく思う

自分の欠点に興奮するようになったのがいつからなのか思い出すことはできないけれど、欠点が愛しくて仕方がない毎日を送っている。「嫌よ嫌よも好きのうち」って言葉は他者との間ではなく、自分との対話にこそ、むしろそれのみに適用される言葉だと思うくらいに。欠点のことを嫌だと、心から思ってはいるのだ。すぐにでも失いたいし、失えるように努力するべきだときちんと思っている。真っ当な答えを弾き出す脳みそが正しい指示を出すとは限らなくて、私は人生のほとんどの時間、欠点の前でゴロゴロしてきた。

「洗濯機回さなきゃ」と思いながらベッドの中でスイカゲームやるみたいに「あー治したいな」と思いながら努力しない。時々眠る前に、その愚かさが恐ろしくなって「明日からは…」などと思う。大抵三日坊主にもなれやしない。成長と一定の距離を保ったまま生きてきてしまった自分を恨めしく思っていたはずなのに、いつからかそのみっともなさに愛おしさを感じ始めているのは、生きるために必要な防衛本能の一種だったりするんだろうか。自分を好きでい続けるために興奮しているんだとしたら。随分こんがらがった、それでいて優秀で、都合のいい精神と肉体だなと思う。

もっと細いウエストがいいと思いながら家系ラーメンを食べること。もっと早く起きれるようになりたいと思ってかけたアラームを止めること。ちょっと派手すぎたかなとワンピースの襟ぐりを気にすること。それは弱さだ。強くなりたいと願う私に、まとわりつく弱さ。さっさと失って、昨日より堂々と歩けるようになりたい、のに、できるようにならないのは、弱い私の怠りの結果。恥ずべきこと、だからこそ、そのウィークポイントを愛しく思う。恥ずかしいのに生きている自分を偉いと感じて、欠点を守ってあげたくなるのだ。