世の中のルールは「数が多いほう」に合わせて作られている『差別はたいてい悪意のない人がする』

Photo by Duc Nguyen

前にもこのコラムで書いたことがある気がするけれど、私にも一応、32歳くらいまでは結婚願望のようなものがあった。ただし振り返るとそれには、根底に経済問題が絡んでいたように思う。男性の収入に頼る気でいたわけではないけれど、単純に、1馬力で頑張り続けるより2馬力で頑張るほうがリスクヘッジになるだろうと考えていたのだ。

さらに、それに加えて当時の私の頭の中にあったのは、「世の中のマジョリティでいたい」という欲望だった。この世界は右利きの人間が多いので、左利きの人間は何かと不便を強いられる。それと同じで、道具も、制度も、法律も、多くはマジョリティのために作られている。数が少ないほうに入ってしまった人間は、何かと不便を強いられるのだ。だから若かりし頃の私は、できれば数が多いほうのグループに入って、快適な人生を送りたかったのである。 

しかし今思うと、この欲望はちょっとせこい気がする。というか、我ながら「せこくね!?」と気づいたからこそ、結婚願望がなくなったのだが……。さらに言えば、私の特質的に、数が多いほうのグループに入るよりも、数が少ないほうのグループに入って道なき道を開拓するほうが、世の中の役に立てるような気がした。

立派なキャリアがあるわけでもない平凡な女が、1人で自立ししつつそこそこ楽しく生きていけることを証明できたら、後進の女性たちはきっと安心するだろう。もし道半ばで失敗したら、どこでどう失敗したか記録しておくことで、これもやっぱり後進の女性たちの参考になるだろう。そういうふうに生きていこうと思った。

そして、最近読んだキム・ジヘの『差別はたいてい悪意のない人がする』には、まさにそんな話が書いてあった……ように思う。

差別をするのは、悪意のない善良な人

差別はたいてい悪意のない人がする/キム・ジヘ (著), 尹怡景 (翻訳)/大月書店

キム・ジヘは、韓国の江陵現州大学校多文化学科で教授を務めるマイノリティや差別論の研究者で、本書はそんな著者の思索エッセイとなっている。差別は、悪意のある人が誰かを傷つけようと思ってすることは実はそれほど多くない。だいたいは、善良な優しい人が、悪意なく日常の中で差別を行なってしまう――本書は、さまざまな事例を持ち出しながらそのことを繰り返し訴える。

身近なところの話をするならば、たとえば、私は少年マンガの二次創作が好きなので、BL愛好家の萌え語りツイートなどをよく見ている。何気ない萌え語りの中で、BL好きの女性は「ホモとかゲイとかじゃなく、この2人はただ人として愛し合っているだけなの!」みたいなことを、いまだに言っていることがある。

この人は、「ホモとかゲイ」つまり同性愛者は人として愛し合ってはいないと思っているのだろうか? そもそも、「ホモ」は差別的な意味を含む言葉であり、文脈にもよるが、ほとんどの場面において使うべき言葉ではない。二次創作界隈にいると、こんなふうに思わず脱力してしまうツイートに遭遇することが、残念ながらしょっちゅうある。ただ、このような発言をする人も決して嫌なやつというわけではなくて、常識があって人に優しい、仕事と育児を頑張っているお母さんだったりするのだ。