独身女性も、フェミニストも、ネット右翼も「わかりやすく」はない――『ネット右翼になった父』

by Subhra Jyoti Paul

20代のうちは合コン三昧、奢らせ三昧、わがまま放題で男性たちからプレゼントもらい放題。ところが30代になった途端まわりの男性たちからの反応が鈍くなり、しかし20代で贅沢を知ってしまったこともあって恋人や結婚相手への要求水準は下げられず、選り好みしているうちに30代も後半になり、結果的に「売れ残り」……と、SNSを徘徊しているとアラフォー独身女性にこんなイメージを持っている人はまだまだ多いのかなあと思う。

もちろんこういう独身女性だって1人もいないわけじゃないだろうけど、しかし実際のアラフォー独身女性で、この像にぴったり当てはまる人はそんなにいないんじゃないかな〜というのが私の率直な印象だ。

20代のうちに合コン三昧だったような女性たちはクレバーで強かなのでだいたいは売れ残らず29〜32歳くらいでさくっと結婚していくし、ちょっと恋愛に疎いタイプの女性でも本人にその気があれば35歳までには結婚できる。

36歳以降で独身でいるのは私のような「よくよく考えてみた結果、家族を持つこととかにそんなに興味がなかった人」がほとんどなので、たまに「日本が少子化で大変なのはお前が選り好みするからだ!」みたいな憎悪をSNSでぶつけられると「架空の人物像に怒らないでくれよ! 選り好みしてるんじゃなくて1人で静かにしてるのが好きなだけだし、こちとら割り勘主義なので男性と2人で食事して奢らせたことないんですけど!?」と怒り返したくなる。

しかし、はたして私自身は他の属性に対して「THEこういう人なんでしょ像」を当てはめていないかというと、「痴漢ってこういう人がするんでしょ」「ネットで誹謗中傷を繰り返しているのはこういう人でしょ」みたいなイメージをやっぱり持ってしまっている気がするので、振り返ってみると怪しくなる。今回はそんなことをしみじみと考えさせられた、鈴木大介さんの『ネット右翼になった父』の話をしたい。

明らかになっていくのは、父親の多面的な姿

ネット右翼になった父 (講談社現代新書) /鈴木 大介 (著)

本書は、ルポライターの鈴木大介さんが2019年に亡くなった自身の父親について綴ったエッセイだ。戦中生まれで高度経済成長の時代を駆け抜け、「典型的な昭和のサラリーマン」であったという鈴木さんの父は、晩年「ナマポ」「ファビョる」などのネットスラングを会話に用い、保守論壇誌を部屋に置く「ネット右翼」となってしまう。何が父を右傾化させたのか――人間関係や父親との生前の会話を振り返りながら、鈴木さんは丁寧にその実態に迫っていく。

本書の中で私が印象的だったのは、人間の多面的な姿だ。生前を振り返るごとに、鈴木さんが捉えていた父親像と、鈴木さんの姉が捉えていた父親像と、そして母親や父の知人が捉えていた人物像とでは、すべて微妙な「ズレ」があることが明らかになっていく。

よく考えてみれば当たり前のことかもしれないけど、同じ子供の立場である姉と弟の間でも、父親像や家庭内の雰囲気について捉え方が異なっていた点は、すごく興味深かった。家族の中でもここまでばらつきがあるのだから、「フェミニストはこういうやつ」「ネット右翼はこういうやつ」「アラフォー独身女性はこういうやつ」なんて、人間をわかりやすい典型的な人物像の型に押し込めることなんて絶対にできないと実感する。

そして、鈴木さんが晩年の父の女性蔑視的な発言を「森喜朗元首相と似ていた」としている点も興味深い。20年前なら許された発言が、今ではもう許されなくなっている。30代や40代の私たちなら当然のようにできる価値観のアップデートも、70代や80代となると難しい。もちろんだからといって森喜朗元首相の発言を擁護するつもりもないけれど、読んでいるうちに、本書はそんな当たり前のことを次々に気づかせてくれるのだ。