誕生日のショッキングな記憶

私は昔からこういう人間だったわけではなかった。若い頃はナチュラルに、それこそ「なんとなく」で友達をやっていた。
色んな人と出会っては別れを繰り返すうちに、いつしか私はコミュニケーションがわからなくなってしまったのかもしれない。そうなってしまった出来事はいくつかあるのだが、特に今でもちょっとしたショッキングとして記憶していることがある。

友達との関係性を築く方法は色々あると思うが、トップ3で重視されるのがおそらく誕生日だ。歳を重ねれば重ねるほど、誰かの誕生日を祝わなければ自分の誕生日はあまり祝われないものである。
そういうものとは考えもせず、当時ある友達に誕生日プレゼントをあげたのだが、その後他の友達にはあげているのに自分にはくれなかったのだ。
別に見返りを求めてあげたわけではなかったのだが、その人にとって私の優先順位が低いと実感した瞬間、自分の存在価値も低いとみなされた気がしてしまったのだ。
以来、私は「優先順位」という物の言い方に固執するようになってしまった。
友達を遊びに誘うことだって、優先順位が高いからこそできることだ。必要じゃなかったら誘うわけがないのだ。
かといって、自分の優先順位の高め方もわからない。プレゼントをあげたところで高くなるわけでもない。

悩みは解消できてはいるけれど…

ああ、改めて友達の作り方がわからない。友情の深め方がわからない。
しかしその悩みも最近は解消されてはいる。恋人だ。
恋人という絶対的優先順位トップレベルの存在ができたことで、安心してどんな遊びも誘うことができるようになった。
浴衣デートも、旅行も、お祭りも、キャンプも海も、恋人なら問答無用に誘うことができる。
友達は人によっては知人レベルだったり親友レベルだったりと距離感がバラバラで非常に曖昧だが、恋人は一貫して恋人でしかない。ある意味マニュアル的。これは頭の固い私にとってはわかりやすくて助かる存在だ。

しかしせっかくなのだから「友達と旅行」という実績もいつの日か解除したいところ。
きっと、心の底から気が合う人と出会えば自然と遊びに誘えるのだろう。いつの日か出会えるのを願って、まずは徳でも積みたいと思う。

Text/oyumi