私たちは同人誌即売会でセクシャルな欲望を交換してる『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』

三次元のアイドルや俳優にハマったことが、これまでの人生で一度もない。好きな作家や映画監督ならまあいるけれど、その人のサインが欲しいとか、今何をしているかなどの行動を知りたいとか、あわよくば直接お話をしてみたいとか、そういうことを思ったこともまったくない。俳優であれ作家であれ、クリエーターは作品がすべてなので、とにかく作品さえ生み出してくれればあとはどうでもいい──というクールな(?)スタンスを長年貫いてきた私、まさか30代半ばになって、この方針を大きく変えざるを得ない出会いをするなんて想定していなかった。

今ではせっせと長文のファンレターを書き、差し入れを考え、ストーカーのようにブログを過去ログまですべて読み、「あわよくば」の煩悩のカタマリとなって、イベントのたびに愛を告白しに走っている……相手はそう、推しカプの二次創作本を出してくれる同人作家(同世代・女性)である。神作家と喋っているときなんて、高校生のときちょっといいなと思っている男子と喋っていたときと同レベルかそれを上回るくらい心拍数が上がってしまう。「す、好きです。いつも読んでます」ともごもご言い淀みながらイベントで怪しげなファンレターを渡して立ち去る女、それが今の私である。恐ろしい中年になってしまったぞ。

同人作家でそのレベルなら、肝心の推しカプを生み出した原作者に万が一カチ合ったら、心臓が止まってしまうのではないか。たまにそんな質問をされることがあるのだが、私の場合、原作者に対してはこれまでのクール・スタンスのままであり、万が一カチ合っても「どうも〜」くらいのテンションでいると思う。原作者より同人作家のほうがドキドキするなんて原作に対する冒涜ではないか!? ……否定できない部分もあり、せめてものお布施としてなるべく公式にお金を落とすようにはしているのだが、私がこのような心境に陥っている理由は、溝口彰子さんの『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』にだいたい書いてあったのだった。

同人誌即売会では欲望の交換をしている

BL論を中心に、映画、アートなども研究している溝口さんは、『BL進化論』の中でボーイズラブの歴史や変遷をたどっていく。BLの始祖を森茉莉であるとし、萩尾望都の『トーマの心臓』や竹宮惠子の『風と木の詩』に触れ、雑誌『JUNE』を経てBL、やおい同人誌の文化は本格的に花開く。本書はBLの内容にも深く切り込んでいき、「男同士の恋愛」を描いているようで実は「受=女性役割」「攻=男性役割」で固定されてしまっていること、「俺はホモじゃない、お前が好きなんだ!」などのセリフにホモフォビアが潜んでいること、実際のゲイ男性によるやおい批判など、初期のBLの問題点を指摘する。しかし時代が進むにつれ、書き手である女性たちの意識は変化していく。本書で触れられているのはBL商業誌のみだが、昨今は素人による二次創作でも、「俺はホモじゃない」などというセリフはほとんど見かけないと言っていいと思う(5年前くらいまで遡るとまだ微妙にあるけど)。

歴史的な変遷ややおい論争などを振り返るのももちろん興味深いのだが、私が本書でいちばん印象的だったのは、同人誌即売会という場の特殊性だ。二次創作では原作作品のことを「ジャンル」と言い、同ジャンル同カプ作品の書き手・読み手には、年齢や住んでいる場所や社会的な立場を問わず、ゆるい共犯意識や仲間意識が存在する。このコミュニティ意識はなんなのだろう、原作に対する罪悪感か? と我ながらずっと謎だったのだけど、もっとストレートに、私たちはコミュニティ内でセクシャルな欲望を交換し合っているからなのだと気づく。他人とセクシャルな欲望を交換することは、もはやセックスの一部であると溝口さんは書く。原作者には「どうも〜」なのに、同人作家には気持ち悪いほど心酔してしまう理由は、これでだいたい説明できてしまった。自分でも「これって恋?」とは思っていたのだが、恋というか、もうほとんどセックスだったのだ。そりゃ心拍数も上がるわな、と私は納得した。