私の応援の仕方は本当に正しいのだろうか

「推しがいるから人生が楽しい!」「推しのために生きてる!」とか、生きがいや趣味は人生に必要なものだし、誇張的な表現なのかもしれない。けれど、なんで自分の好きな存在に自分の生活背負わせてるんだよ!って思ってしまう。推しのすべてを肯定しなくてもいいし、好きな気持ちにも度合いがあって色んな角度から楽しんでいいはずなのに、まっすぐで素直な好意しか受け付けないような強さがある。

だからと言って、代わりの言葉があるのだろうか? というと、なかなか難しい。ファンとか好きとか、完全一致もしないんですよね。さらに、今はSNSで感想をつぶやくことが応援にもつながり、「私にとって、この人がもっとも応援している存在ですよ」と端的に表現する便利な言葉としての役割も持っているわけで。

その人の推しやスタッフがSNSをくまなくチェックしているかはわからない(関係者が見ている可能性は限りなく高いと思う)し私はもうエゴサーチしないけれど、たまに過去に出した本や書いた文章に対してタグをつけてツイートしてくれる方やDMで長々と感想を伝えてくれる人がいる。私はその人のことを全く知らない。でも、「書いてよかった(かも)」くらいの気持ちには必ずなるんですよね。反応はないよりあったほうがマシ。何者でもない私が誰かの推しになることがないが、人の目に入る母数が少ないからこそありがたいなとは思っている。

「推し」ってなんですかね? 何かに夢中になれるのは素晴らしい。自分の好きなものははっきりわかることは、私の生活の華であり、もっとも価値のある感覚のひとつである。でも、BTSの活動休止会見での「アイドルというシステム自体が、物理的に人間としての成熟する時間を与えてくれない」という発言を受けてから、つい考えてしまう。

私の応援の仕方は本当に正しいのだろうか。過剰な好意や応援が、かえって重荷になってしまうことってあるんじゃないか。人ひとりの力は微々たるものだが、その気持ちが集まって大きな力になるし、それが職業とかカルチャーに繋がる。ここに来て、人や人の作る創作物を好きでい続けることや自分の気持ちを表現することの難しさを感じる機会が増えるようになった。

私の好きってなんだろう? 本当に正しいのか? 私のまっすぐな気持ちが、誰かを傷つけることってあるんだろうか? 「推し」の言葉に隠された、色々な背景をつい探ってしまう。

Text/あたそ