「男だったら絶対彼氏にしたいのに」と言われる役割
幼稚園に通っていたとき、おままごとをすると決まっていつもお父さん役かペット役だった。小学生になると恥ずかしさからスカートが履けなくなって、男の子向けの服を着て毎月コロコロコミックを買ってもらうようになった。私の性格とかある程度の人生の道筋みたいなものはこの頃から決まっていて、天性のものではなく社会によって形成されたものなのだと、大人になってからつくづく思う。
私はピンクやリボンを選ばなかったし、医学部に通っている大学生の彼氏と夜景を見にドライブに行ったりしない。「かわいい」「守ってあげたい」には絶対に分類されなくて、ずっとずっと「男だったら絶対彼氏にしたいのに~!」とか言われ続ける。そういうタイプの女は、大体さばさばしているとかサブカルとかおもしれえ女に大きくカテゴライズされる。からかわれることには慣れてはいるのだが、ここ最近、ずっとずっとそういう決まり切ってしまった自分の性格や立ち位置に嫌気がさしている。
たとえば、初対面の人であっても、酒飲みで喫煙者だとなんとなくバレる。学生時代はバスケ部に所属していたことを言えば「バスケ部かバレー部だと思った」と必ず言われる。自炊しているのは「意外」だと言われ、割とちゃんとした会社で働いていることに驚かれる。人は今まで経験したことから大体の目星をつけて話をするらしく、私に対する印象としてはそんな感じだ。たぶん、年金も払ってなさそうで部屋も飲みかけのペットボトルとかガロ系の漫画やゴダールとかドラン辺りのDVDが転がっている阿佐ヶ谷の築35年の木造アパートに住んでいそうな、そういうイメージ。現実はさておきなんですが……。
作り込まれた自分のイメージと実際の自分にズレがある
見た目や話し方で「この人、こうっぽいな」「こんな感じの人なんだろうな」と思うことって誰でもある。でも、そういった私に対して作り込まれすぎたイメージと実際の自分にズレを感じて、たまに全部嫌で嫌で仕方なくなる。女友達と一緒にいると、私はどうしてもどこかかっこいい風に振る舞ってしまうとか。それがとてつもなく気色悪く、「結局私は恋人の代わりなのかもしれないな」と思うことがある。
彼女たちと遊ぶとき、私はスケジュールや目的地をすべて決める。一緒にいるときも大体私が決める。「人に言って結論が変わるんですか?」という悩みや相談にも、欲しいであろう言葉を並べて共感するし、無関係の内容だったとしても心底心配している振る舞いをする。だって、それが友達の証みたいでもあるし、その場での対応として、話を最後まで聞きながら心配して「また何かあったら話聞くからね……」とか言うのが大人としての正しい在り方だから、そうする。私の対応は間違ってはいないのだと思う。そうして私は「優しいね」という称号を手に入れてきた。
私が好き好んでやっていることもある。やりとりが面倒なLINEをできるだけ少ない回数で済ませるために予定を組んでおくとか、どうせなら美味しい店で酒を飲みたいし、ああだのこうだの悩む時間は無駄だと感じるからスパッと決めたいとか。悩み相談をしてくれるのは、私を信頼できる人間だと思ってくれたからで、誰かと(特に女友達であれば)関係を続けていくには必要なことだという認識はある。
だけど、それも結局「すべて任せてしまったほうがいいのだろう」「文章を書ける人だから悩みを聞くのが得意だろう」といった私に対するイメージがあって、それに応えるように振る舞ってしまうところがある。彼女たちの前にいる私は、「性欲のない彼氏」「絶対に好意を持たない男友達」みたいに脅威を一切感じさせない存在でいる必要があって、付き合いが長くなればなるほど友情が徐々に均衡ではなくなってくる。だって、私の女友達は私が今何に悩んでいるか知らない。具体的にどんな友達がいるのか、どんな人間関係のなかで生活をしているのか、知らない。言わないし、言う必要もないと思っているから。
この世に悩みのない人なんて、何も考えずに生きている人なんてこの世にいない。でも、私はその対価として個人的なことを打ち明けることはない。自分が世界で一番辛いと思っているような彼女に打ち明けられることなんてひとつだってない。たぶんこれからも言わない。そのバランスの悪さというか、手放しで信頼されることに居心地の悪さを感じる。
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