擬態みたいだな、と思う。

「この人ならわかってくれる」「受け止めてくれる」という純粋な態度を向けられるのが辛い。期待されているであろう、他者のイメージのなかの自分を演じ続けなければならないのが、ごくたまにしんどい。「私にはわかるよ」みたいな態度で自分の話を聞いてくれて、ありきたりな優しい言葉をかけてくれる人なら誰でもいいんだろうな、と思うことがある。だって、面倒な相談を一切持ちかけてこなくて脅威にもならなくて、話だけ聞いてくれる人って絶対に居心地いいじゃないですか。

でも同時にそれは、私が社会に上手く溶け込むために会得した一種の処世術であって、だからこそ付き合いが続いている人、友達になれた人、その人達とのつながりから得られたものもたくさんある。簡単に降りられるはずがない。

恋愛小説を読んでいるだけで馬鹿にされたこと、自分の趣味の話をしたら「興味ないんだよね~」と言われたこと、相手の気持ちに寄り添わないことを言ったら非難されたこと。これは相手が想定する私の人格に添えなかったから生じた出来事なんじゃないだろうか。期待していた人物像からかけ離れていたからこそ、起こったのではないだろうか。

「この人はこういう人だ」「性格的にこちらを選ぶだろう」「仕事で悩んでいるから、頼りになるあの人に相談してみよう」と、人は無意識のうちにその人の価値や性質を分類し、おおよその検討をつけ、「優しい人」「仕事ができる人」「頭がいい」などのラベルを貼っていく。それは他者と関わり合いながら社会で生きていくには必要なことで、きっと私も同じことをしている。果たして自分が他者に対するラベル付けは、正しいのだろうか。間違っているのだろうか。私が女友達と同じ空間にいるときに感じる窮屈さを、誰かに与えてしまっているのではないか。

特に大人になってからの人間関係は、「一緒にいて楽しい」「居心地がいい」という些細なことも含めて互いにメリットがないと続かないから、この社会や周囲の人間関係によって作られたイメージや張り付けられたラベルを無理やり剥がしてしまったら、一体私にどんな価値が残るのだろう。文章を書くのを辞めたら、お酒を飲むのを辞めたら、仕事を変えたら、ライフステージが変わったら、相談や悩みに対して一切耳を貸さなくなったら、音楽や本や旅行を好きじゃなくなってしまったら。もはやそれは私ではないかもしれないが、私の価値はきっとゼロに等しくなる。

擬態みたいだな、と思う。自分が振る舞いやすい場所と、相手に期待されているイメージのはざまで、バランスのいいところを探して、その人物になりきる。そうやって生きていくことが社会性を身に着けるとか、大人になることだとするなら、やっぱり私だけが子どものままでぽつんとひとり取り残された感覚になるのだ。

Text/あたそ