東京生まれだけど、ずっと「私には行けない東京」があります/姫乃たま

永遠なるものたち028「私の東京」

by Dino Sabic

 東京は下北沢の外れにある酒屋で生まれました。祖父母が毎晩午前二時まで営業している酒屋です。
 当時はまだ店先にお酒と煙草の自販機が並んでいて、受け取り口にお酒や煙草が落ちるガタンッという音が響くのを聞きながら育ちました。
 店内のカウンターよりまだ背が低かった頃から記憶があります。カウンターは見上げると、レジやセロハンテープの台、煙草の並んだケースなんかが目に入りました。カウンターの下にはお酒のポスターが貼られていて、四隅のセロハンテープが乾燥して褐色になっていました。指先で触れるとカリカリとした感触が伝わってきます。

 祖父が冷蔵室で棚の裏側からビールやジュースを補充する時はついていきました。はじめはあたたかい肌に密着しているだけの寒さが、長い時間そこにいると体の中まで入り込んでくるようで、徐々に怖くなってきます。寒さは、怖いことだとそこで知りました。いつも自分でついていくくせに、店内に戻るとほっとするのです。
 バックヤードには商品の詰まったダンボールがたくさんあって、夕飯の時間まで缶チューハイやビールのダンボールを机と椅子にして、小学校から借りてきた本を読むのが好きでした。
 店の外には公衆電話が二台あって、時々使っている大人がいたので、真似をして耳に当てて遊ぶことがありました。一度だけお金も入れてないのに、誰かと繋がったことがあります。向こうの人は驚いて困っていて、私も大変驚いたのでがちゃりと切ってしまいました。あれは、なんだったんだろう。

 冬になると、祖母が狭いカウンターの中に小さな電気ストーブを置きました。私も働く祖母の足元に小さく丸まって暖まりました。電気ストーブは距離感が難しくて、近づき過ぎると途端にじわっと熱くなります。頭の上で祖母がお客さんと話したり、レジを開けたりする音が聞こえてきます。
 カウンターの中には古いすのこが敷かれていて、釘の頭が頻繁に飛び出してくるので、祖父母の足元が心配で、気がついた時に金槌で叩くようにしていました。子どもの手でも、金槌を使えば簡単にすのこの中に戻っていくところが愉快でした。

 あの頃の全ての感触を手の平でよく覚えています。バックヤードのダンボールがひんやりしていたこと。公衆電話の受話器の重たさ。店で売っていた片栗粉の袋を外側からつついた時のぎしぎしする感じ。
 ある時から、なんでもかんでも触れてみたい欲求が薄れて、同時に物への細々した記憶も薄れていきました。物をあまり触らなくなることが大人になっていくことなんだと気づきました。
 私はいま大人になって、不用意に何かに触らなくなって、酒屋ももうありません。

私の行けない東京

祖父母が店を畳んでからも、両親と下北沢の別の家に引っ越して住み続けました。生い立ちを話すと、「シティガールだね」と言われることがあります。
 その言葉を聞くと私はいつも、あの店にお酒を買いに来ていた人たちを思い出します。特に夜。これから何か楽しいことが始まる人たち。
 彼らはいつも私の知らない夜の東京の気配をまとって店にやって来ました。そして酒の入ったビニール袋をぶら提げて、また夜の街へと消えていきました。彼らを見るとどきどきしたものです。

 私は東京生まれだけど、ずっと「私には行けない東京」があります。
 東京で生まれても、子どもは夜中に好きに出かけて遊んだりすることはできません。
 このことについて、歌手の土岐麻子さんとラジオ番組でお話ししたことがあります。
 東京で生まれた土岐さんは、都会について「孤独と不安と自由の高揚感がワンセット」と話していました。
 なんてその通りなんだろうと思って、私はほとんどめまいがするようでした。家族に守られて暮らしている子どものうちは、孤独も不安も自由も得られないから、高揚感も得られないのです。

 土岐さんが子どもの頃は、土曜日の20時になるとテレビで『オレたちひょうきん族』が流れていました。エンディングテーマはEPOの「DOWN TOWN」です。
 サビの「DOWN TOWNへ くり出そう」という歌詞を聞くたびに、「これを見終わった大人たちは、どこかわからないけれど、DOWN TOWNと呼ばれるところに行くに違いないと羨ましく思った」そうです。
 でも子どもだった土岐さんはDOWN TOWNには行けず、「21時だから寝なさい」と言われるだけでした。

「私の行けない東京」も、そこにあります。確実に何かが起きている街にいるのに、子どもの自分は置いてけぼり。
 だから時折、母親に連れられてパーティに参加するのは大好きでした。そこにはいろんな大人たちがいました。
 腕時計をぽいっとプレゼントしてくれたおじさんだとか、娘さんがアメリカに住んでいるという女性や、テレビドラマの音楽を作っているというお兄さんや。
 でも、夜のパーティでも私はやっぱり子どもでした。母親に連れられてきた女の子。
 いつの間にかみんなとは疎遠になってしまって、どこで何をしているのかは知りません。