「変な人だなと思って飲んでみたかったんですよ」面白い人を演じ続ける不安と怖さ

「面白い人」の武器とその苦しさ

by Giovanna Gomes

「面白い人」「個性的な人」「変わっている人」として消費されるのをやめたい。

私はどうも普通とか常識みたいなものが欠けているらしく、どこに行っても「面白い人」「個性的な人」「変わっている人」として認識される。今思えば、中学・高校くらいからずっとそんな感じ。なんとなく浮いていて、クラスメートや友達・同僚などの「ああいう人だから……。」という寛容な態度に甘んじてここまで生きてきてしまった。

私の認識では普通なように振る舞えているはずなのに、なぜかどこへ行っても「変な人」というジャンルにカテゴライズされてしまう。他の人と同じように会社員として働いて税金納めているんですけどね。でも、たぶん自分の能力とか才能で生きていけるほどには変じゃないんですよね。目下の地味な悩みといえば、これだ。私は「変な人」と他人から認識されるのをやめたい。

もう少し若い頃は、「面白い奴」として興味を持たれるだけで何かに勝ったような気持ちになっていた。普通なんて絶対に嫌だったし、「個性的」ってそれだけで武器になる。他の人とは違う特別な誰かになれたような気がする。「つまらない」と思われるなんて絶対に嫌だ。これは今も変わらない価値観だけど、どうせ一緒の時間を過ごすなら、「楽しかった」「面白かった」「また飲みたい」と思ってもらいたい。

特にお酒を飲み始めるようになって、そういう役割を受け持ち続けてわかってきたのだが、結局「面白い奴」って常に面白い奴でなければ興味を持ち続けてもらえないらしい。

なかには純粋に興味を持ってもらえてよい友達になることもあるけれど、「こんな人が友達にいるんですよ!」というステータスに利用されることもあるし、「まあ、こいつを呼んでおけば場は持つでしょ!」とコミュニケーションの大半を投げられることもある。

誰がどんな風に私に興味を持ってくれているのかはわかる。何を期待しているのか、どういう立ち回りでその場にいればいいのかも、なんとなく空気で伝わってくる。その期待に応えようと奮闘して、解散した後電車のなかとかシャワーを浴びながら、自分をすり減らしながらしゃべり続けていたなと思うと、落ち込んで、自分のことをますます嫌いになりそうになる。

今後、会うこともないであろう初対面の人に「普通の人」「つまらない人」と思われたところで何の損もしないはずなのに、どうしてもサービス精神旺盛な対応で頑張ってしまう。目には見えないだけで、ほとんど自傷行為みたいな酒の飲み方を私は未だにし続けている。