「多様性」「ダイバーシティ」に偽善を感じると砂をかけたくなる気持ち『正欲』

多様性に砂をかけたくなる気持ちを抑える女性のイメージ画像
by Hannah Xu

二次創作の世界に足を踏み入れたばかりのとき、そういえば私はpixivのキャプション部分にある「注意書き」の多さに、けっこう驚かされた記憶がある。通常、物語の結末を事前に知ってしまう「ネタバレ」はどちらかというと避けられる傾向にあるが、二次創作の世界では「死ネタ注意」「◯◯に別の交際相手あり」「キャラ崩壊注意」などと、キャプション部分に物語の結末(というか読後感)を示す長々とした説明が加えられていることが少なくない。

物語の筋を追い、あるところではそれに裏切られることも楽しみの一つである原作に対して、二次創作はやはり各々の性癖の追求であり、自分が予想できる範囲で心の安寧を得たいのだろう。それ自体は、二次創作はそもそも元の原作とは性質が異なるものなので、私も特に文句があるわけではない。

少しだけ引っかかるのは、そのキャプション部分をよく読んでいると、この世には「事前の注意書きが必要な設定」と「別に注意書なんていらない設定」があると思われているのだなということが、透けて見えてしまうことだ。推しキャラAとBが死別するエンドの物語に「死ネタ注意」と書かれ、激しめの暴力描写がある物語に「リョナ注意」と書かれる、それはまあわかる。

しかし実をいうと私個人としては、死ネタよりリョナより、結婚・妊娠・出産・あるいはそれを機に女性が仕事を辞めてしまう描写などがあるほうが「地雷」だ。でも、推しキャラAとBが想いを確認し合って幸せになり、結婚し、妊娠し、それを機に女性(受け)が仕事を辞める物語に「結婚注意」「妊娠注意」「寿退職注意」といったキャプションが加えられることはない。

私は死ネタがけっこう好きなので、自分が書くときは他者に配慮をする。でも、結婚や妊娠や寿退職といった私の「地雷」に配慮してくれる人は、ほとんど誰もいない。まあ、そういう扱いには慣れてるので別にいいのだけど、世の中ってつくづくフェアじゃないよな〜と、私は二次創作の世界にいても思い知らされるのだった。フェアじゃないというか、多数派に合わせて設計されているよね、と。

表面的な「多様性」では救われない人たち

二次創作の世界に限らなくとも、上記の話になんとな〜く共感してくれた人がいたなら、私は朝井リョウの『正欲』を読むことを勧めたい。

『正欲』は主に、YouTuberを目指す不登校の息子を持つ寺井啓喜、寝具店に務める桐生夏月、学祭で「ダイバーシティフェス」を開催するために奔走している神戸八重子の3人の視点から、話が進む。物語の中でこの3人が直接出会うことは最後までないが、桐生夏月が寺井啓喜の息子のYouTubeを見ていたり、3人のいる世界はゆるく繋がっている。

少しネタバレになるけど、寝具店に務める桐生夏月は「水が勢いよく飛び散ったりする様に性的興奮を覚える」という特殊な性癖の持ち主だ。誰にも打ち明けることのできない性癖に追い詰められていく桐生夏月の物語の隣で、「自分に正直になろう!」とダイバーシティフェスの開催を進める神戸八重子の物語が進行するのは、グロテスクでもある。本当に自分に正直になったとき、桐生夏月が「水が勢いよく飛び散ったりする様に性的興奮を覚える」と打ち明けたとき、はたしてダイバーシティフェスを開催する学生たちは、それを受け入れる心構えはあるのだろうか。

私はおそらく生涯独身を貫く女性として、社会が多様性を認めてくれないと非常に困る。なので基本的には「多様性」「ダイバーシティ」みたいな考え方を推しているが、その考え方に偽善を感じるとき、砂をかけてやりたい気持ちになるときは度々ある。『正欲』はその、表面的な「多様性」「ダイバーシティ」という考え方では救われない人たちを、最後まで狂おしく描いていく。