「そのときはそれが一番だと思った」で十分!人生を明るく諦める『赤い魚の夫婦』

by Aditya Saxena

ごくたまにリツイートなどで回ってくる「結婚するなら◯◯な人」「不倫しないのは◯◯な人」みたいな言い回し、見かけては、「ものはいいようだな〜」とひねくれた見方をしてしまう私である。たとえば、「不倫しない男の特徴」みたいなものをすべてばっちり兼ね備えているのに不倫している男性を、私は知っている。人間は誰しもが複雑で、チェック項目で診断できるような単純な存在ではないのだ。いわゆる「結婚に適さない男」と結婚してもその後の生活がすんなり上手くいく場合もあるだろうし、逆に「THE・結婚向きの男」と結婚したのに破綻することだってある。少なくとも私は、「こうしておけば間違いない!」みたいなことは、人生においてはほとんど夢というか、幻想みたいなものだと思っている。

最善を尽くしてもダメなときはダメだし、特に何もしていないのにふわっと上手くいくときもある。それならば、「これでダメならしょうがない」と思えること、好きなこと、楽しいこと、あるいは苦悩すらも快楽だと感じられることをして生きよう――そう思って私は「ま、間に合わないかもしれない」と怯えながら、今日も同人誌の印刷所の締め切りをチェックしているわけだ。

人間は生き物だから、その人生だって、いつ何があってどうなるかわからない流動的なもの。グアダルーペ・ネッテルの『赤い魚の夫婦』は、私たちにそんなことを改めて思い出させてくれる小説だと思う。

広い水槽で魚を飼えば、喧嘩しないでいられるか?

現代メキシコを代表する女性作家であるネッテルの『赤い魚の夫婦』は、表題作を含めて5つの作品が収められている短編集である。最初の『赤い魚の夫婦』には観賞魚のベタが、『ゴミ箱の中の戦争』にはゴキブリが、『牝猫』にはタイトル通り猫が、『菌類』には菌が、『北京の蛇』には毒蛇が、それぞれ登場する。生き物たちは常に人間のそばにいて、私たち人間もまた制御の効かない「生き物」であることを、グロテスクにあぶり出していく。

『赤い魚の夫婦』の主人公は妊娠中で、夫のヴァンサンと二人で暮らしている。ペットは観賞魚のベタで、オスとメスが一匹ずつ。ベタの飼育にはなかなか手がかかるらしく、主人公は図書館で本を借りて、ベタの世話の仕方と繁殖について調べる。オス同士よりもオスとメスで飼ったほうが共生しやすいこと、5リットル以下の狭いスペースで飼うとストレスが溜まって体に線が出てきてしまうこと――本から知識は得られるが、実際に飼ってみるとこれがなかなか難しい。大きな水槽で飼ってみても、主人公の家のベタはオスとメスで喧嘩をし、傷だらけになってしまう。

夫のヴァンサンはそんなベタたちを見ながら、「もっと狭い水槽でだってのびのび過ごせる魚もいるのにな(p.35)」とぼやく。そうなのだ。「こういう人を選んでおけば間違いない」なんてことはない。本の通りにやってみても上手くいかないこともあれば、本など何も読まなくても上手くいくこともある。立派な水槽で飼っても喧嘩するベタはいるし、狭い水槽で飼ってものびのび過ごせる魚もいる。そして、喧嘩を続けるベタのオスとメスの関係をなぞるかのように、妊娠から出産にかけて徐々に夫婦の仲は悪化していき、最終的に、主人公は夫のヴァンサンと離婚してしまう。