仕事は出版関係で、余暇は新宿ロフトプラスワンに出入りし、飲み場はゴールデン街……という青春時代を経て、今ではすっかり俗物的な人間に仕上がってしまったわたしには、ひとつ反省することがあります。それは仕事で、飲み場で、度々出会う“名前のある男性”を、過剰にチヤホヤしすぎたのではないかということです。
“名前のある男性”とは作家だったり映像監督だったり漫画家だったりカメラマンだったりの、いわゆるクリエーターという職業に属する人々で、わたしは多感な時期に彼らの作品を目にしてずっと憧れていたし、例えその人が手掛けた作品をあまり知らなくても、名前があるというだけで、十分に尊敬の対象に成り得た。
“名前のある男性”と出会ったら
だから、そういった人と出会う場面があったら、強制されたわけでもないのに隣に座って身体を押し当て、「面白かったです~!」「素敵でした!」などと氏の創作物を褒めちぎり、なんなら脱ぐ。脱ぐというのは、セックスの隠語ではなく、そのままその場で脱いでイエーイ!とはしゃぐことで、そこまで身体を張ったのに、“名前のある男性”は大概の場合にわたしではない女性を気に入って、そちらを口説くのが常でした。いま思えばそれは超が付くほど当たり前で、酒を飲んで裸で暴れている女は、宴会を盛り上げるのにはいいけれど、騒がしくて下品なばかりではなく淫靡さに激しく欠けている。
なぜそんな単純な事実に気が付かなかったか。いえ、気が付いていたのです。創作物への興味がその作者自身への興味に無邪気に直結していたわたしは、抱かれたいというわけではなく、ただただ同じ場にいて、話ができることが嬉しかった。もっと言うと相手によっては抱かれることも不本意ではなかったけれど、「その場にいる俺のファンのひとり」ではなく「人として興味を持ったから」という理由が欲しかった。だから、わかりやすく自分を見下せる女という立場に落とすことで、性的な対象から切り離そうと試み、そういった心情まで汲んだ上で「君は面白い」と評価してくれるのならば、股も開きましょうぞよ……って我ながら、なんとややこしい。
“名前のある男性”に見初めてもらいたい
もうひとつ心の奥にあったのが、“名前のある男性”がわたしを押し上げてくれるのではないかという下心です。身体を張って仕事を取ろうとか、惚れさせて自分のコントロール下におこうとか、そういうわけではなくて、「君には才能がある」と認められる何かがわたしの中にはあり、それを見初めてもらいたい。そして、ふさわしい場所へと連れていってほしい。悪くいえば思い上がり、よく言えば祈りのような期待があって、“名前のある男性”に積極的に近づいていたこと。そういうことの結果として “名前のある男性”たちを、増長させていったのではないかという、後ろめたい気持ちがあるのです。
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