家族をつくるのは悪くないかもしれない

なぜ人(私)はペットを飼うのか? というと難しいところだが、自分よりもずっと高い体温を感じられない自分ひとりだけの今までの暮らしに違和感があったからというのが正しいでしょうか。動物の動く物音を感じるようになったいま、生き物がいなかった生活なんて考えられない。もちろん毎日世話をするし、できるだけストレスを感じさせず、幸せにしてやりたいなとは思う。結局、「ペット」という形で飼育しているのだから、人間のエゴでしかないのかもしれないが。

こいつのために長生きしなきゃな、と思う。健康で、できるだけ仕事も頑張らないといけない。でも、やっぱり自分のなかにある希死念慮や人生に対する失望や諦め、そういったふっとどこかに消え失せてしまいたくなるような感覚ってなくならないもんなんだな、と改めて思う。今まで飼っていた犬だって、ほかの動物だって世話は楽しかったし、とても大切な存在ではあったが、やっぱりずっとそういう感覚はあった。いくらかマシになったのはきっと加齢のせいであって、ペット飼育の有無は関係ない。やっぱり私は好きな生活を自由に選択できる立場にあったとしても、この感覚と死ぬまでずっと付き合い続けなければならないのだろう。

以前、「子どもを産んだらそんなことどうでもよくなるよ」「結婚して、出産したらいいんじゃない?」と言われたことがある。当時は「そういうものなのかなあ」と思っていたのだが、たぶん私の場合は当てはまらないんだろう。自分自身について考える時間の割合が減るという程度であって、結局どんなに幸せになったとしても、欲しいものを手に入れたとしても私は私のままで、ずっと人生や理想に近づけない自分の何かしらに対して失望し続ける。そんな気がする。

保険も資資産運用も確定申告も私にはよくわからない。そんな自分の世話すらまともにできない人間が、鳥の世話をしだして早起きをし、ごはんをきちんと食べ、きちんと眠れるようになり、次の日が楽しみになった。まだ一週間しか経過していないが、結果的に私の生活は多少改善した気がする。希死念慮は私のなかにうずまっているだろう。けれど、できるだけ死なないように「死にたい」に近い思いを自分のなかから減らすことはできる気がする。

子どもがいたらこんな感じなんだろうな。子育てを経験した方からすれば「たかが鳥と一緒にするなよ」と思うかもしれないが。私に子どもがいたら日々の不安をネットで検索しまくって「妊婦はシャンプーをすると赤ちゃんが泡だらけで出てくる」というデマニュースを信じて一層不安になり、死にそうな赤子が心配で眠れなくなり、でも「こうしないと赤ちゃんが可哀想」という他人から大きなお世話に対しては不機嫌な顔で舌打ちをする。おもちゃや服をたくさん購入し、泣き叫ぶ姿に悩み、色んな果物や菓子を買い与えるのだろう。自分のすべてを投げ打ってまで世話に明け暮れ、そうして自分を消耗しながらも毎日の些細な生活のなかに生きがいみたいな小さなきらめきをきっと見つける。そう思うと家族を作るとか子育てをするのも悪くないのかもしれない。ただ私は私の子孫を残したくないのと、自分に似た顔をした子どもを愛せそうにないのと、自分のなかに存在する暴力性が恐ろしいというだけで。

そんなことをああだのこうだの打っていると、鳥は私の横でうつらうつらと昼寝をしている。平和だ。とてつもなく平穏だ。これが幸せだというのであれば、私は彼が生きているうちは、彼の幸福を守り続けてあげたい。今はそう思っている。

Text/あたそ

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