第12回:大石圭・著『愛されすぎた女』(前編)
前回のコラムで「同窓会に呼んでもらえないうんぬん」と愚痴ったところ、まさかのまさか、お盆に開かれるという中学の同窓会へのお呼びがかかりました。
「おら、本当に行ってもいいだか?」と悩むところはありましたが、このタイミングで誘われる機縁。
「いつ行くか? 今でしょ!」というわけで、勇気を出して出席してきたわけです。
大人になった同級生たちは押しなべて感じよく、身構えていた自分がバカらしいほどに楽しい時間を過ごすことができました。
ひとつ残念だったことは、件の元彼が欠席だったことで、二次会のスナックでひそひそと盛り上がる、かつての恋人同士を見て羨ましい気持ちになりました。
どんなに泥沼になって別れたカップルだって、20年も経てば笑顔で話せる……話せるんですかね? いやいやいや、例え100年先でも1000年先であっても、どうしても許せそうにない相手だっていますよね。わたしにはいます。
おせっかいな友人が近況を伝えてこようものなら「死ねばいいのに」と心の中で呟き、あの男のことが好きだった過去の自分が恥ずかしく居た堪れない。
だめんずにハマってしまったと笑い飛ばすにはまだ傷も生々しい相手……わたしの中でのそんないまだ『許せていない元彼』は、『束縛する男』でした。
彼の休みの日は必ず予定を空けておかねばならず、女友達と飲んでいる最中には鬼電話、好きなバンドのライブに行くと機嫌が悪くなる。
いま思えばとんだモラハラ男なのですが、その最中は、なぜだか『それが当たり前』で彼が機嫌を損ねるのは『すべて自分が悪い』と思い込んでいたのです。
なぜそう思い込むに至ったかというと、それはおそらく、彼がわたしのことを「愛している」と連発していたせいです。
愛しているのだから、いつでもどこで何をしているか把握していたい。
愛しているのだから束縛して当たり前。
もともと、両親の『愛による支配』を受け入れて育ってきたのだから、恋人のそれもまた、受け入れる土壌は出来ています。
が、両親と違い、恋人が厄介なのは、愛しているのだから「自分のことも愛せよ」と求めること。
そしてその「愛」を形として示すよう求めてくることです。
というわけで、今回紹介するのは官能ホラーを多く手掛け、9月には壇蜜主演の映画『甘い鞭』が劇場される大石圭氏の『愛されすぎた女』です。
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