今回のテーマは「夫婦と仕事」だ。
共働きが当たり前のご時世である。お互いが仕事を持っている夫婦も多いだろう。
しかし職場まで同じという夫婦はそこまで多くはない。よって毎日「俺は関ケ原、お前は桶狭間」と、戦には違いないが、お互い別の戦場へ向かうのである。
相手が戦場でどのような戦いをしているかを知ることは出来ない。地雷を踏んだり流れ弾に当たったり、果ては特攻までさせられているかもしれないのだ。
逆に明智がマジで乱する5秒前な織田信長ポジションという可能性もある。
そんなホットな戦況でも「報告」されるか、物理的に負傷して帰ってこない限り、パートナーの職場のことは伺い知ることができない。
この「報告」、つまり家で仕事の話をするか、というのは非常に個人差がある。毎日、戦死者から脱走兵数まで逐一報告し「なんの成果もありませんでした!」で締める、キース教官のように嘘偽りないタイプもいれば「軍の規約で守秘義務がありますので」と一切黙して語らないタイプもいる。
うちはお互い、あまり言わない方である。
仕事の話をしない人間の根底には「してもしかたない」という考えがある。
何せ別の戦場の話なのだ。大塩平八郎の乱に参加しているパートナーに、自分のワーテルローの戦いの話をしてもわからないだろう。そして、話したところで戦況が変わるわけでもない、と思っているのだ。
さらに仕事の話というのはほぼ5億%楽しくない話、つまり「高純度の愚痴」である場合が多いのだ。特に日本産の仕事の愚痴は純度が高い、産業面で各国に後れを取りつつある日本だが、仕事の愚痴に関してだけはまだ「MADE IN JAPAN」に勝るものはない。あまりに品質が良すぎて「カメムシが自分の匂いで死ぬ」ように、言えば言うほど、己の愚痴の救いようのなさにすっきりするどころか、弱っていくという現象すら起こる。
よって仕事の話などしても無意味だし、いたずらに茶の間や食卓の空気を重くするだけという理由で、しない人間は全くしない。
しかし「言っても無駄」というのは、ある意味間違いである。
確かに、パートナーの仕事の問題というのは「どうにもできないこと」である。
むしろただの愚痴に対し、十字軍に参加していた妻が俺の本能寺に来て火つけて帰った、みたいなことがあっては困る。
だが「言っても仕方がない」というわけではない。何故なら愚痴というのは「言うこと」と「聞いてもらうこと」自体に意義があるからである。
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