愛という名の下に

 このストーリーを授業で取り上げたとある公立小学校の様子が先日、NHKで放送されていました。

 その中では、「価値観の押し付けになっていないか」という教育者側の戸惑いもきちんとレポートしていたのですが、「せいきゅう書を渡したお母さんの気持ちを答えよ」というディスカッションでは多くの子供たちが「家族にはお金を求めないのが当然」と答える中、「子どもっていいな、おこづかいがもらえるから」と答案に書いて「お母さんだってお金をもらいたいと思っているのでは?」と新しい視点を提案した男の子が、クラスのみんなから笑われ、最後には口を閉ざして泣いてしまうというシーンがあり、放送後にはネットで当然のようにバズり、様々な意見が交わされていました。

  小学校高学年にもなれば、自分の意見は持っていても教材や教育者の意図が汲み取れるので、スケジュールを順調にこなすために「こう答えて欲しいんだろうな」と順応することができるようになります。
だからこのドキュメンタリーの中で、「お母さんだってお金が欲しい」と意見した子供が一人しかいなかったのも、他のみんながその意見にザワついたのも、私には特にショックじゃなかったのです。わかる。みんなが彼みたいに自分の意見を正直に言えるわけじゃないし、私だってその場にいたらそっち側にいっちゃうことあるかもしれない。

 けれど「お母さんのせいきゅう書」って、キャスティングが「お母さん」と「息子」にされちゃってるのがずるいなって思います。

 え、労働に対価を期待してはいけないんだっけ? 請求するしないは別として、自分の働きや役割に対しての価値を数字で明確に示すこともいけないの? とモヤッとさせないように、登場人物を「彼女と彼氏」や「妻と夫」じゃなく、「お母さんと息子」にしちゃってる。ずるい。

 そりゃ支払い能力のない未成年の子供に、自分の日々の労働をお金に換算して伝えたりしたら「お母さん」がヴィランズになっちゃうよね。
「お父さん」は毎日お仕事してお金を稼いでくれて立派だね、ってなるのに、「お母さん」が家でしてることは、お仕事じゃないよね、愛だよね、ありがとう、って美しい話にまとめられやすくなる。
これが「お父さんと娘」になっても、今度はジェンダーバイアスがかかって、毎日自分たちの生活のために働いてくれてるお父さんに「せいきゅう書」って! 女ってコワイ! ってなるんでしょ? あーあ。

 いや、愛に、値段をつけてくれよ。
ちゃんとバリューを感じてくれよ。

 もちろん、お金をよこせって言ってるんじゃないよ。

 愛という名の下に私たちの時間と労力と精神を搾取しないで欲しい。意見を潰さないで欲しい、って言ってるだけ。

「無償でやって当たり前のこと」という価値観が染み付きすぎていて、私たちがああしたいこうしたい、こうなればいいな、って意見することさえ、「調子にのってる」「偉そうにするな」と封じ込められちゃうのが怖いのですよ。

 これ、家庭内での労働ってだけの話じゃなくて、「値段がつけられない」、っていうのと「タダ」っていうのは全然違うことだって気づいてないと、色々ヤバイと思う。仕事でも自己犠牲を強要したり売りにすることが習慣になってると、お互い痛い目にあいますからね。フリーランスで20年仕事してて「お母さん」10年やってる私には、この「せいきゅう書」問題、素通りできないですわー。

Text/ティナ助