20代後半になってぼちぼち「結婚」というワードを意識しはじめた頃、どんな人と結婚したい?と考えたとき、私の頭に浮かぶのはいつも「わかってくれる人」というぼんやりしたイメージでした。
承認欲求を満たしたいから仕事はずっと続けたいし、それほどお金のかかる趣味はない。それに他人のお金を使って遊ぶと途端に楽しく感じなくなっちゃうタイプだったから、相手は稼いでる人じゃなくても大丈夫、と思っていました。
結婚相手の見た目に対してとくに条件はないけど、そもそも私は面食いで生理的に受け付けないルックスの人と親しくなることは今までなかったから、これからもないだろう、つまり結婚するなら相手はそこそこイケメンに違いないと楽観視していました(おい!)。
性とか性格が合うかどうか、っていうのは、正直、あんまり考えたことはなかったです。
だって、そういうのは気分とかシチュエーションの問題だと思っていたから。
私に冷たい人が誰かの優しい彼氏かもしれないし、私が退屈してしまう人の話で他の誰かは大爆笑かもしれない。
倫理的にヤバイとかじゃない限り、性格の良し悪しなんて誤差。
優しい人がいつどんなときも誰にでも優しくなれるわけじゃないし、嫌な奴が満遍なく誰に対しても威張っているか、というとそうでもなかったりする。寛大で太っ腹な人が、破産しても太っ腹でいられる可能性も低いでしょうね。
どうせ、性格なんて気分やシチュエーションで変化する脆いもの。
だいたい、「優しい人がいい」って言ったって、優しい彼氏が自分以外の女の子にめちゃくちゃ優しかったり、ワガママ聞いてあげてたりそっちを優先してあげてたりしたら、「何してんの!」ってブチ切れるでしょうが。優しいのは私にだけでいいんだよ、それか、私の友人知人に「あんたの彼氏優しすぎ〜ヤバイ〜」ってザワつかれる程度の範疇でいい!ってなるでしょうが。
よく、男と女はわかりあえなくて当然、という言説ってあるじゃないですか。「男脳」と「女脳」なんていって、要は男はつねに倫理的・合理的な考え方をするけど女はすぐ感情的になるから、云々、と結局は女性ディスに着地しようとするあのいやらしい考え方。
「わかりあえない」のが前提になっている、という部分だけは私も賛成です。
あの叶恭子さまだって、『わかり合えないということ』というフィロソフィをつねづね語っておられます。ブログから抜粋すると、こんな感じ。
“わかり合う ということの難しさは 性別などのことだけではなく 日常のあらゆる関係性に 存在しています。 人は皆それぞれ 違うのですから すべてを 不自然なまでに わかり合おうとすることは 勘違いや温度差を 感じることなど 不必要なストレスになります。 あくまでも ポジティブな思考で そもそも すべてをわかり合おうなどと 大それたことを考えずに、 むしろ わかり合えないことを大前提に 考えてベストを尽くすと 自然で心地よい関係が 新しい可能性をうみだす 楽しさに変化します。 あなたのことは あなたですら まだわからないことが あるのですから。”
(原文ママ)「わかり合えない」ということ✨-叶姉妹オフィシャルブログ
はあ〜〜〜〜〜〜っ。ありがたい。
ブログやインスタではこの世のものとは思えぬような「#マシュマロおっぱい」の画像とともにポストされているので、ありがたみが倍増します。
私ら弱小一般人と違って、権力ある男性たちとも対等に渡り合え、ときには相手の意見をねじ伏せて言うことを聞かせることだってできそうな(勝手なイメージだけど)、そんな叶姉妹だって、このようなフィロソフィを持っておられるのです。
「わかりあえるはず」という思い込みがどんだけ傲慢なことか、若かった頃の自分自身に説教したいです。
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