最愛の母の死と、ドイツ貴族との辛い結婚生活     

Nurture By rickyqi Marie Laurencin – Elégie ou Anciennes sirènes (1927)i

 やがて彼女は、淡い紅色、青、緑の色調を使って、狐、鳥、馬などを添景として配し、 女性の姿をとらえる幻想的な画風を確立していきます。画家として軌道にのっていた30歳のとき、最愛の母を亡くしました。
私を愛してくれなかったママ。でも、私は大好きでした
 母の死の孤独に耐えきれずロ-ランサンは31歳のときに結婚をします。彼女が相手に選んだのは、ドイツ貴族で自称画家のオットー・フォン・ヴェッチェンでした。私生児だった彼女が、公爵夫人の肩書きが欲しかったためともいわれています。

 結婚式は1914年6月28日に行われましたが、その6日後にドイツはフランスに宣戦布告をして、第一次世界大戦が勃発する。ドイツ国籍になっていた彼女は、故郷フランスを追われることになります。
 1914年9月、ロ-ランサンはスペインのマドリ-ドに亡命。待っていたものは、アポリネールとは正反対のガサツで、女性の心を解さない夫との地獄の日々でした。

 ローランサンの失意を慰めたのは、パリに住む人気デザイナー、ポール・ポワレの妹のニコル・ グルーとの文通でした。  ニコルは生涯の親友になりましたが、この交流はローランサンの同性愛に対する目覚めるきっかけに。その後も、ローランサンはレズビアン的な傾向に走り、何人もの女性の恋人をもっています。肉体の快楽よりも、官能的な愛撫や接触を好んだそう。

戦場にいるかつての恋人アポリネールとの文通

 その一方で、彼女はフランス将校として戦場にいるかつての恋人、アポリネールのことが頭から離れませんでした
 1915年から6年にかけて、アポリネ-ルは『追われる美女』『見つかった捲毛』『 鳩の拒絶』『露営の火』『くやんでいるグラナダ娘たち』など新しい作品が出るたびにローランサンのところに送ってきた。彼女もかかさず、返事を書きました。
 1916年、ベリ-=オ=バック近郊、ビュットの森の塹壕で、アポリネールは重症を負います。この知らせもロ-ランサンに届きました。
 1918年5月2日、アポリネ-ルは美しい赤毛の女、ジャクリ-ヌ・コルブと結婚してしまうのです。ローランサンは自分も結婚している身でありながら、この報せに打撃を受けました。ロ-ランサンは「アポリネールは永遠に自分のものだ」と信じていたのです。ジャクリ-ヌは永遠に自分のライバルになりました。

 その年の11月10日、ロ-ランサンは2通の電報を受け取ります。アポリネールが危篤という報せと死亡したという報せ。スペイン風邪による肺充血でした。
 ロ-ランサンにとって、スペインでの5年 間は、哀しく辛い日々でした。ローランサンは、ようやくフランス永住の許可を得て、1921年、美の都パリに戻ってきます。  翌年、39歳のときに、夫とは正式に離婚

情愛の相手を養女に迎え入れ、かつて愛した人を想った晩年

 ローランサンも老いから女の魅力も失われてきます。かつて、もてはやされた作品も時代遅れといわれるように……。
 そんな中、家政婦でかつ情愛の相手であった 21歳年下のシュザンヌ・モローは嫉妬心からマリーを束縛。友人や他の愛人をマリーから遠ざけさせます。捨てられることを恐れたマリーは言われるまま
 1954年には彼女を正式に養女にむかえます。そして、1956年、彼女に見取られて72歳の時に心臓発作で死去。

 亡骸は純白のドレスに包まれ、手には赤いバラ、遺言によって胸には若き日にアポリネールから送られた 手紙の束が載せられていました

 繊細な詩人は才能ある画家をもっとも理解し、深く愛したのでしょう。ともに私生児で哀しみもわかちあってきたのかもしれません。
 しかし、自分の生き方を貫いたローランサンは他者を苦しめ、自分をも傷つけていったのかもしれません。
 お互いに真実の愛を求め続けながら、孤独に陥っていったのでしょうか。

Text/AM編集部