これは対談なので、「晒すことについて」の結論は出さない。 ただ、晒すことの良し悪しは置いといて一点だけ。彼女たちがしていることがどれだけ覚悟が要るか、そのことには想像力を及ばしてもいい気がしてしまう。少なくとも私はできねえ。
顔を出して名前も晒して、大事な思い出や心の核に近い部分を事実として開示するなんて。どう解釈されるかも分からないコロッセオに。
晒すことの良し悪しなんてほっといて、「自分はどこまで晒そう」を各自が考えればいいだけの話じゃないか。
だって、誰もがSNSをやる時代。多かれ少なかれ自分を晒している。
どこからがダメで、どこがいいとか、誰にでも共通の何かなんてあるもんじゃない。
でも、わざわざ言いたくなる、その心のざわつきはなんなのだろう。晒している人に一言言いたくなる、その衝動の根本はなんだろう? 書かれた家族が可哀想? 書く本人が可哀想? そんなアドバイスの衣を被った己のコンプレックス隠しはおやめなさい。
「自分は、自分の家族のことは書かない」「自分は、自分の体験を書くのは向いてない」それでいいでしょう、もうほっときましょう。
そう、2人の「もう、ほっといて」の言葉が、印象的だった。それは、なんの論理立った言葉でもなければ、説得力のある言葉でもない。でも、それで十分な気もした。「ほっとけないよ!」というあなた、多くの事象を放っておいてるくせに、なぜこれは放っとけないの? なぜこれは放っとけないのか、という心は放っとかないでみるのもいかがでしょうか。余計なお世話ですね。
今一度、2人がこれまで書いたものを、読んでみて欲しい。
バズることを狙ったわけではなく、書きたくて書く、何万人もに読まれながらも「作家扱い」をされない、新しい発信者たちです。
Text/舘そらみ