映画とはかくも人間の本質をあぶり出すものか。また、人間とはかくも自己愛と、あるいは他者愛の中の自己愛とぶつかり合う生き物なのか。
それはまるで、映画の文法を一から百まで確かめるように、“人間”という辞書を何百ページも新たにめくるように。
その男は妻が死んでも、これっぽっちも泣けなかった。
自分以外を愛したことがない。でも、本当の意味で人間と肌と肌で触れ合い、微かに変化する瞬間がある。
やがて作家として「人生は……」とある結論に達する時、その男の代わりに大粒の涙が溢れ出してしまう。
『ゆれる』『ディア・ドクター』など人間の暗部を描き続ける西川美和監督が、第153回直木賞候補作にもなった自著を自らの監督・脚本によって映画化。『おくりびと』などの本木雅之を主演に迎え、深津絵里、ミュージシャン兼俳優の竹原ピストル、池松壮亮、黒木華など、多彩なキャストで鋭い心理描写で人間の持つ“自己愛”について問いただす。
他人への愛情が、自己愛のための“逃避”に過ぎない
津村啓、本名・衣笠幸夫は自分以外の他人を好きになったことがない。
冒頭の数分間でその性質が明かされる。妻・夏子に髪を切ってもらいながら「幸夫くんって呼ぶのやめてよ」などと売れない頃から支えてくれる妻の愛情を拒み、捨て台詞のように傷つける言葉を次々と投げる。
妻が家を出るとすぐに愛人に抱きつく。その後、バス事故で妻を亡くす悲劇が訪れてもなお、愛人に心の救済を求めようとする。さすがに拒まれると、ようやく初めて孤独を感じる。
妻の葬式で遺骨を抱いて車に乗り込む時も、バックミラーで前髪を気にする。記者会見の後は「作家」である自分の印象をネットで検索する、いわゆる“エゴサーチ”を始めるというあまりの自己愛の塊に笑ってしまう。
こんなとんでもないゲス野郎が、なぜか突然イイ奴になる。同じくバス事故で妻を失った大宮が仕事に出かけている間、幼い子どもたちの面倒を見るというのだ。扱い慣れていない子どもたちとの共同生活は愛らしく、長女・灯ちゃんに「幸夫くん頑張れっ!」と応援されながら自転車で坂道を登る姿は微笑ましい。と、不器用にも愛情を注ごうとする彼だが、その本質は身近な人に見破られる。幸夫のマネージャーに「逃避ですよね?」と言い当てられるのだ。
幸夫はそれを否定できずにいる。まるで自意識が服を着て歩いているかのようだ。妻を亡くしたことで様々な感情に袖を通し、幼い子どもたちとの生活に衣替えしても、性質は変わらない。母を失った兄妹を愛することは、自分自身を愛するための手段に過ぎなかったのだ。
しかし、ある出来事によって“自分”が介在しない、本当の意味での思いやりが芽生えてくる。
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