キュリオは太陽でノクスは月?
現代版おとぎ話が問いかけるもの
舞台版は抽象的な描写で通用しても、映画版は具体化しなければ説得力がない。が、その第一ハードルは余裕で飛び越えている。たとえば、日の出を知らせるサイレンや、まるで国境のように厳重なゲートもそのディテールがシュールにも恐怖にも見え、独特な世界観にズブズブと入り込んでしまう。
観ていると、自分がキュリオとノクスのどちら側の人間として生きているか考えてしまう。深遠なテーマがずっと根底に流れているから、現代のおとぎ話のように思えてくる。
キュリオとノクスの関係性が意味するもの。それは、田舎と都会、貧困層と富裕層、過去と未来…と、その対比はあらゆるものに置き換えられ、我々が普段から慣れ親しんでいるものの隠喩にさえ感じられる。
自給自足で田んぼを耕して暮らすキュリオは、自ら光を生み出す太陽。一方、常に科学や文明に頼っているノクスは、自ら光を発さない、常に照らされている月に思えてくる。
ただ、そこで重要なのは人と人の繋がりだ。
草一と結、鉄彦と森繁のように、太陽が月に裏返ったとしても変わらない関係性こそが、太陽と月の下で暮らす我々に生きることとは何か、“人間らしさ”とは何かを問いかけてくる。
太陽は当たり前のように存在する。が、その“当たり前”が脅かされる可能性は、自然災害やテロなど、現代にはいくつも潜んでいる。
ある日時、昼と夜の2つに分かれてしまうような“当たり前”がひっくり返る事態に直面した時に、誰の顔を思い浮かべるでしょうか。
人と人とを繋ぐその関係性が『太陽』に全部描かれています。
ストーリー
21世紀初頭、ウィルスの感染で人口は激減し、生き残った人類は二つに分断されることになった。ウィルスを克服し心身ともに進化しながらも、太陽の下で生きられない新人類=ノクス。もう片方は、太陽の下で自由に生きられるものの、ノクスに管理されながら貧しい暮らしを余儀なくされる旧人類=キュリオ。
ある日、村でノクスの駐在員をキュリオの男が惨殺する事件により、経済制裁を受けることになる。その10年後、村の若者・鉄彦(神木隆之介)は生活に息苦しさを感じながら鬱屈とした日々を送っていた。
一方、幼馴染の結(門脇麦)は自分と父・草一(古館寛治)を捨ててノクスへと転換手術した母を憎みながら、キュリオの復権を祈っていた。
鉄彦はノクスの駐在員・森繁(古川雄輝)と仲良くなり、再開されたノクスへの転換手術に応募したことで豊かな生活を夢見ていた。だが、そんな中で10年前に事件を起こし逃亡していた鉄彦の叔父・克哉(村上淳)が村に帰ってくる。
村は不穏な空気に包まれ、鉄彦と結はある深刻な事態に直面する――。
- 1
- 2