向かう先にセックスあり。その快楽の先にあるものとは?
これは全8章に分かれた壮大な「セックス叙事詩」。どのチャプターも一つの短編として成り立っていて、単独で観ても楽しめる。ラース・フォン・トリアー監督のかつての作品とは思いもよらない、乾いた笑いに満ち溢れた娯楽性にまず驚く。
Jとの初体験の際、忌まわしい数字「3+5」のテロップが突如繰り出される。シリアスに見せかけて、いきなりバラエティ感満載の演出が組み込まれる。
特にチャプター3の『H夫人』は爆笑モノ。サスペンスにコメディ要素が入り混じる。不倫現場をまるでコントのような緊張感溢れる笑いが込み上げて、ある意味監督の新境地なのかもしれない。
Vol.1は性に奔放な日々を描き、Vol.2はその代償を容赦なく切り取る。
ジョーは一時の快楽を積み重ねて、確実に何かに麻痺していく。それが性器の麻痺に繋がる。知的で冷静なセリグマンと自身の過去を語ることで、そのセックス放浪記がより一層テーマを明確にさせる。
回想劇スタイルはいわば“エロいフォレスト・ガンプ”。ジョーは走る道を選ばず、ヤる道を選んでしまった。回想の中で、ジョーは過去と現在を自由に行き来する。そこでセリグマンとの時間は確実に流れていて、単なる回想劇でないことを後半で思い知らせる。
ジョーの“20XX年セックスの旅”に果てがなく、地続きである事が描かれるのです。
ジョーの存在は、倫理観・社会性を一切排除した“結果”
ジョーの行き場のない性欲はやがて、彼女を非合法のセックス・セラピーに通わせることになる。
我が子との時間を犠牲にしても、不気味なサディスト・Kに縄で縛られて乗馬用の鞭で叩かれることに興奮する。救いようのない欲望が人生を破壊し、彼女はやがて犯罪に手を染めることになる。
「自業自得じゃん」って簡単に片付けられない。「性欲に倫理観・社会性をすべて排除し、本能のまま生きていたらこうなる」というある意味実験のような物語は、観る者の性欲に問いかける。
「私は色情狂よ。そういう自分が好き!」
セックス依存症が集う会で、ジョーは自らを肯定する。何がいけないのか、悪いのか。変態と犯罪の道に走っていく彼女でも、どこか女の逞しさを感じてしまう。
全編セックス尽くしであるが、ジョーがのたうち回る原因となる満たされないものに対する渇望感は、あらゆるものに置き換えられる。お腹がすいたらご飯を食べるように、愛を失った彼女はセックスする。でも、そこで欲求は満たされるのか。セリグマンとの掛け合いは時折自問自答になる。
彼女が愛を手に入れるかどうかは、この映画を観る者の性欲に答えがあるのかもしれません。