「生きていることの価値」が自分にも適用するなんて

あれはいつだっただろう。小学生の頃だったか、近所のプールに母親と弟と3人で出かけて行きました。もともと弟に泳ぎを教えるのが目的でしたが(母親は子どもの頃泳げるようになるのが遅かったので、泳ぎを覚える快感を人一倍知っている)、実際にプールに着いてみると、弟につきっきりの母親が大変に不服でした。
それはたしかに、まだ泳げない弟をひとりにはしておけないけど、当時の私に言わせれば泳げる私のほうが関心を持たれるべきだったのです。
でも現実には、まるで泳げないほうが良いことのようで、しかも泳げない弟は泳げるようになるけれど、泳げるようになってしまった私はもう泳げなくはなれないのでした。残念なことです。 それですっかり、何もかも嫌になってしまいました。プールの塩素の匂いも、はしゃいでいる子どもたちの喧騒も、子どもと遊んであげている知らない大人たちの笑顔も。全部がひどく遠いものに感じられて、不貞腐れたままプールサイドで体育座りをして、足の裏とおしりのあたりから水分が地面に吸われていくのを感じていました。
やがて母親がやって来て、どうしてつまらなさそうにしているのと言います。せっかくプールに来ているのに、と。それはその通りだったけど、私はなんて言ったらいいのかわかりませんでした。きっとひどく不貞腐れた表情をしていたことでしょう。

大変恥ずかしいことに、私はいまでもあのプールサイドの時と同じ不満を抱えていたのです。主に、仕事に対する両親からの評価について。私がどれだけ働いても、それが評価されても、彼らは私の仕事について特に感想を持たないのです。父親はミュージシャンなので、私の仕事が物珍しくないのもわかるのですが、ことさら母親に対しては不満と不安がありました。

でも、彼らは私の仕事に関心がないわけではなかったのです。
というのも、(これがもし常識だったら、どうしていままで誰も教えてくれなかったのか訊きたいのですが)、かけがえのない人というのは、ただ生きてくれているだけでよいのです。
もちろん私も、そのことは知っていました。自分にとってかけがえのない人たちには、ただ居てくれるだけで充分だと思っています。でもそれが自分にも適用されることについては、考えたことがなかったのです。つまり、自分が誰かにとってのかけがえのない人であっても「ただ居るだけで充分」になるとは思っていなかったのです。
私は、自分にとってかけがえのない家族や友人が私を誇れるように、自分が他者からの評価が得られ、彼らに何かを与えられる存在でいることが必要だと思っていました。

「でも、あなたはかけがえのない人に、他者からの評価があることや、何かを自分に与えてくれることを期待していますか? していないですよね」
ついこの間、精神保健福祉士の方から言われたことです。本当にその通りでした。

母親が私の仕事の評価について特に何も言わないのも、生きているだけでいいと思ってくれているからなのです。
いままで私は「元気でいてくれてるし」が、どうして母親への親孝行になるのか、わかっていませんでした。でも、自分が生まれてきた理由を世界平和と言い切るほど素直で明るい女性ですから、きっと本当にそう思ってくれているのでしょう。

私は成長するにつれて、それが自分自身だと思い込んでいた母親と徐々に分離していき、長らく自分とはなんなのか見失っていました。そして、もう二度と手に入らない幼少期の完全な安心を想ってはずっと途方に暮れていたのです。
しかし、自分で「私がただ生きていることの価値」を認めることができたら、完全な安心は再び叶うかもしれません。
あの完全な安心が、自分の中に眠っているかもしれないのです。それを実感する方法は、まだまだわかりそうにないけれど。

Text/姫乃たま

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