偽善者に敏感になってない?
言葉というのは、人に幸せや元気を与えることもあれば、逆にひどく傷つけ、相手の可能性を奪ってしまうこともあります。
子供おばさんは、人に対して安易に「偽善!」という言葉を使います。
例えば、ボランティア活動をしている人に対しても、その人に少しでも「自分を良く見せたい」という欲があると思うと、そんな言葉を浴びせます。
大人女子は、「偽善」といった言葉をそうそう使いません。
たとえボランティアをしている人が、「自分を良く見せたい」と思っていたり、たとえ自分のメリットを考えて活動していたとしても、本当に人を助けているのであれば、助けられた人にとっては、良い行いだと分かっているからです。
あなたは、「偽善」だという言葉を使って、良い行いの芽を摘んでいませんか?
恵むことで、自分が救われることもある
「与える人は与えられる」というのは、この世の法則です。中には、「与えられたい」という下心があって、与える人もいるかもしれません。
でも、褒められたり、喜ばれたりすると、嬉しくなって、本当に“与えられる人”になってくるものなんですよね。
だから、もしまだその下心がある段階の人であっても、「偽善」という言葉を浴びせるのは、その人の可能性を潰すことにもなるのです。
托鉢という行為を知っていますか?
これは、修行僧が鉢を持って信者の家々などを巡って、食糧や金銭をいただく修行なのですが、お釈迦様は修行僧たちに、「貧しい人のところから周りなさい」とおっしゃったそうです。
人は、人に恵むようになったときに、救われることもあります。
それは、自分が「恵む」という行為を通して、「自分にもそういう力があるのだ」と自信を持ち、さらに感謝されることで、幸せ感を得ることもできるからです。
ボランティア活動をしている人の中にも、シンプルに人を助けたいという慈悲深い人もいれば、中にはその活動を通して生きる意味を見出そうとしている人もいるかもしれません。
それも素敵なことなんです。安易に「偽善」という言葉を使うのは、言葉の暴力ですよ?