私の心に触れることも許せないけど、孤独は嫌。矛盾だらけな自分

人に何かを相談したり、悩みや愚痴をこぼすことは誰にだってあることだろう。
でもそれは正しいやり方でやらないと人に迷惑をかけかねないし、自分の首を絞めることにもなる。最近、何でもかんでも人を話すもんではないと反省した。

私は嫌なことや困ったこと、つらいことが起きると、それを周りの人に吐き散らしてしまうクセがある。
例えば恋人と喧嘩して、それが自分の中でとてつもなく怒りや悲しみを覚えるものだったとき、それを人に話さないとやってられないところがある。自分の話を聞いてもらいたいのと、何か解決のヒントになる助言が欲しいからだ。
怒りが強まるとそれがさらにエスカレートして、ひどいとSNSに吐き散らしてしまう。誰でもいいからつらい状況から救って欲しい一心でそういう行動に出てしまうのだと思う。

怒りをSNSに吐き散らしてしまう理由

なぜそうなってしまうかといえば。私は人とトラブルが起きたとき「私につらい思いをさせた」「私を怒らせた」そういう風に捉えがちなところがある。
自分の心に傷が付くことにとても敏感なのだ。自分で自分を傷付けることは全然オッケーだけど、他人に傷付けられることがとにかく許せない。
もちろん傷付けられてもオッケーですなんて人はほぼいないとは思うけど、それにしても私のこの敏感さは特に異常だと思う。歪んだ自己愛がそうさせるんだろうか。

そもそも矛盾がすごいのだ。他人はダメだけど、自分はオッケー。
じゃあ誰かに心を大切に扱われたいのかというと、そういうわけでもない。
私の心に触れることも許せない。肯定するのも愛情を注ぐのもダメ。
でも、孤独は嫌なのだ。
寂しいのは耐えられないし、本音では肯定されたいし愛されたい。それなのに誰かが手を差し伸べるとそれを払いのけてしまう。あるいは無関心を装う。
それは多分、「手を差し伸べるフリをして本当は傷つけようとしてるのかもしれない」と疑っているからなのかもしれない。
他人を信用したい気持ちはあるけど、他人との距離が近くなると急に信じられなくなってしまう。

胸に抱えるたくさんの矛盾

信じたいけど信じたくない(でも本当は信じたい)
一人になりたいけど一人になりたい(でも本当は一人になりたくない)
愛されたいけど愛されたくない(でも本当は愛されたい)

こういった矛盾が多分私の中にはたくさんある。
傷付きたくはないけど、傷付くとどこかでホッとする部分もある。
心の底にある本当の自分の気持ちに無理やり蓋をしようとする、もう一人の自分がいるのだと思う。
「人間は信用ならなくて、自分を傷付けかねない危険な存在なんだ」ということを必要以上に忠告してくるそのもう一人の自分の存在は、多分傷付くことから身を守るために私が生んでしまったものなのだと思う。
だから嫌なことや悲しいことが起こると、「ほら、やっぱり人は信用ならないだろう」と囁いてくる。私も、「本当だ、人は私を傷付けてつらい思いをさせる」と納得する。

自分に非がある可能性だってあるはずなのに、自分の問題を棚に上げてしまう。それは0か100かでしか考えられない私の悪い思考のクセのせいだ。相手が100悪いか、自分が100悪いかでしか考えられない。
だから、後者のときは自分がいかに被害を受けたかを人に説明したくなってしまう。そういうことをしてしまうのは、自分がどれだけ今つらいかを誰かに知らせたいからで、それが自分なりのSOSの出し方だからなのだ。
反対に前者のときはどうなるかというと、今度は内にこもって自己嫌悪モードに入って、他者との関わりを断とうとする。自分がいるから誰かが傷付く、だったら関わらないほうがいい、相手がかわいそうだと思うからだ。