恋愛は8割楽しくて2割つらい。自分を大事にできないと恋人も大事にできない

恋愛って難しい。
それに比べて独り身はいかに自由で気楽で無責任でいられるかとしみじみ思う。
決して一人は楽でいいよねと言いたいわけではない。自分は今までほとんど恋人がいない状態で生きてきて、それがどれだけ気楽だったか(言い方を変えれば、いかに無責任でいられたか)、思い知らされているのだ。

自分がいかに未熟者かが恋愛によってあらわになった。
世の中には喧嘩をしないカップルや夫婦がいるらしいが、彼らは人がよくできているのだろう。なぜ喧嘩が起きるのかを考えてみれば、シンプルに己が未熟だからとしか答えようがない。

恋人との喧嘩はつらい。恋人でなくとも、誰かに怒られたり責められたりするのはとても悲しくて苦しいことだ。一度でも経験してしまうと私はその記憶を背負いながら暮らしてしまう。
何でもかんでも0か100かで考えてしまう私にとって喧嘩というのは非常にダメージが大きい。

「恋愛は、8割楽しくて2割は辛かったり大変だったりするもの」というのが現状から出た客観的な感想だ。
けれどもたった一度の喧嘩が発生すると、途端にこの8:2が0:10に変貌してしまう。楽しいことがたくさんあるはずの8割の部分が頭の中からかき消されてしまうのだ。
だから私は喧嘩が起きると「さっきまで楽しかったのが台無しになってしまった」という風に考えてしまう。
きっと、別に台無しになんかなっていないのだ。楽しいとか嬉しいとか幸せだと感じた過去の自分の気持ちは本物だし気のせいでもなんでもない。
それなのに、些細なことで喧嘩が起きたり亀裂が生じたりすると全部なかったことにしようとしてしまう。

恋愛中に起こる「認知の歪み」

心理学用語に「認知の歪み」というものがある。認知とは、物事の考え方や捉え方のこと。それが歪んでいるとはどういうことなのか。

例えば私の場合だとこんな感じの例になる。
さっきまで楽しくデートしてたのに、あることを指摘されたとする。すると責められたような気になってしまい、頭の中が「また私が何かやらかしてしまった」「また喧嘩が始まる」でいっぱいいっぱいになって、さっきまで楽しかったデートが楽しくなかったとさえ感じられるようになる。だから台無しになったと感じる。
台無しになったという気持ちがより加速すると、今度は「台無しにさせられた」という被害者意識が強く出て、それに対する怒りから相手を攻撃してしまう。

責められたように気がするのは、紛れもなくただの気のせいなのだ。
ところが一度ネガティブな出来事を経験したことで「また私が何か悪いことをしたり傷つけることを言ってしまって、責められるんだ」と決めつけてしまう。
悪いことをしていないかもしれないし傷つけることを言っていないかもしれないし、相手は責めていなくて歩み寄ろうとしてくれている。そういう可能性が高いにも関わらず、話を聞かずに「また責められるんだ」と決めつけてしまう。これが認知の歪み。

さっきまで楽しかったデートが楽しくなかったとさえ感じられるようになり、台無しになった気持ちになる。極端な0or100思考によるものだ。これも認知の歪み。

台無しにさせられたと感じて被害者意識が強く出て、結果相手を攻撃してしまうのも認知の歪みのせいだ。台無しになんかなっていないし、相手は台無しにしたいから指摘してきたわけでもない。

要するに全ての物事を悪い方向へと捻じ曲げてでも考えようと・受け止めようと・さらには決めつけようとしてしまう。
これは、自分がこれまでの人生で親や先生や同級生や職場の人などから怒られたり否定されたりしてきた小さな積み重ねによって形成されてしまった歪みなのだと思う。