四太郎さんを好きになってみたい。奔放さが暴力だと知らなかった頃/長井短

「好きだ」と口にするのが良いことだって

「好きだ」と思ったら、その気持ちの強弱に関わらずとにかく「好きだ」と口にするのが良いことだって、思っていた時期がある。良いことだって、と今私は言ったけど、それは少し嘘。良いこととかってことじゃあなくて、そうした方が良い女だと思っていた。恥ずかしい女だったあの頃の私は、奔放であればあるだけ魅力的だと盲信していて、正直が暴力だって知らなかった。私の正直に巻き込まれて、くたびれたのが四太郎。

四太郎さんと知り合ったのは、私がまだとても若い頃。仕事のつながりで出会った四太郎さんと、私は別に親しくなかった。第一印象で何か強烈な感情を抱いたわけでもなく、ただ淡々と「四太郎という名前の人だ」と思うだけ。だけど四太郎さんと私は、不思議なくらい何度も再会した。「あれ、また四太郎さんいるんだ」と何度目に思った時だったかは覚えていない。私はその空間で好きなタイプを誰かに聞かれて、何故か答えたのだ。「四太郎さんです」別に嘘ではない。四太郎さんの顔はキュートで私の好きなタイプだったし、極端に距離を詰めようとしない大人っぽさも素敵だと感じていた。でも、好きなタイプっていうほどじゃない。だけど心のどこかで「四太郎さんのことを好きになってみたい」と思っていた。「好き」と「好きになってみたい」は全然違うけど、錯覚を起こす程度には似ていた。だから私は「四太郎さんです」と答えた途端、急激に彼に興味を持ち始める。

その時の場の熱量の上がり方は恋バナ特有のそれで、今思い出すと何も面白くないし盛り上がってもいない。誰かが好きなタイプとしてその場にいる人間の名前を上げたら、自動的に周囲の人間は「おぉ〜!」とか「あら〜!」とか、何かしらビックリマークを発語するシステムだってことを、今の私は知っているから。だけど、当時の私はよくわかっていなかった。みんなが大きな声を出して私と四太郎さんを見る。行ったり来たりする大量の黒目は、私の気持ちを高揚させる。そして視界の隅に映る四太郎さんのかすかに伏せられた視線が、なんとも心地よかった。

それから私は、事あるごとに四太郎さんが好きだと口にするようになる。彼がいる場所でも、いない場所でも。そんな風に軽やかに恋心を打ち明ける人間はあまり多くないから、場はいつだって盛り上がる。「誘ってみなよ」とかって言われて、私は「誘いたい〜」なんて言葉を返す。そうやって正直に気持ちを話すことって、セクシーなんじゃないかと考えるようになる。実際、私が「四太郎さんが好き」と言うと、妙に湿った眼差しを持って「どこが好きなの?」と聞いてくる男性はたくさんいた。私が好きだと言っているのは四太郎さんであって、質問者のあなたではないのに、さもこれから自分の好きなところを言われるみたいに惚けた顔をして、私を見つめる。あれは、一体なんだったんだろう。いけるって思われていたとか?その可能性は大いにある。そして、私はそんな風に舐められることが嫌いじゃなかった。

四太郎さんのリアクションは変わらない

「好きだ」と何度言っても、四太郎さんのリアクションは変わらない。いつだってただ伏し目になるだけ。私はその進展のなさも面白いと感じていて、だって、進まなければその間ずっと、私は高らかに「好きだ」と言い続けられるから。それはとても無責任で、身勝手な楽しみだった。頭の片隅で「こういうのってよくないな」っていう理性が働くけれど、そんな小さな声はすぐに楽しさにかき消されてしまう。だけどそのうち、ただ好きだ好きだ言っているわけにもいかなくなって、私はきちんと、四太郎さんをデートに誘う。「どっか遊びに行きませんか?」って言うことは「好きだ」と言うことの何十倍も勇気が必要なことで、手汗をびっしょりかきながらそう言うと、いつも伏せられていた四太郎さんの瞼が少し持ち上がった。