目の前にいるのは人間だ

ゆっくり唇は重なる。女性が女性とキスすることって、あの歌とかその物語とかで沢山描かれていて、大抵素晴らしく最高なものみたいに聞いていたけど、マジで普通に口の味がした。特別なジューシーさとかも別にない。人間。人間の口でした〜。それがわかった瞬間に胸の辺りが重くなる。それは罪悪感だった。

「どうだった?」

余裕そうな顔で私を見る一子さんに、私はどう写っているだろう。

「なにその顔、緊張してるの?」

違うんです。そういうんじゃないんです。私今、最低のことをしたって気がついたんです。キスなんて、別にありふれている。私たちは大人だし、これはファーストキスじゃない。だから、そういう話じゃないんです。私は、この人間を利用したのだ。私が、自分をもっと知りたいからっていう勝手な理由で。自分でやったことなのにショッキングだった。私は一子さんのこと、なんだと思って話してたんだろう。目の前にいるのは人間だ。それ、わかってましたか?

「可愛い」

一子さんはまたそう言って、キスをした。このくらい、よくあることだ。そこら中で起きてることだ。何の気なしに、お酒の勢いで、誰かとキスをしてみること。深く考える必要なんてない。でも、私はどうしても考えてしまう。

「可愛い」

ぼんやりしている私に、一子さんは何度も何度もそう言った。私があなたを利用したように、あなたも私を利用してくれてたらいいなぁ。お互い都合よく利用し合って、その場凌ぎの自分探しとか、自尊心高めたりとか、ちゃんと平等にできてる場だったらいいな。でも、それはわからない。聞くこともできない。私はただ、一子さんの余裕そうな笑顔を、気持ち良さげに細められた眼差しを、信じるしかない。

一子さんがトイレに行ったタイミングで、友達が席に戻ってくる。もう帰ろうって言う彼女の顔も疲れていて、きっと何かあったんだなとわかった。席に戻ってきた一子さんにお礼を言って、バイバイのハグをして、私たちは店を出る。新宿駅までゆっくり歩く。クタクタだけど、最後に二人で缶ビールで乾杯した。そうする必要が、きっとお互いにあった。
朝日の中の始発電車、ラインを開くけれど「友達かも」に表示される名前のどれが一子さんなのか私にはわからなくて、こんな風に人を利用してはいけない。甘えてはいけない。苦しくても、寂しくても、私は一人で自分と向き合わないといけないんだ。そうやって生きていける人間でいたいんだと、強く思った。

TEXT/長井短

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