新居であるアパートの住人に、どうしても顔を合わせるのが嫌な男がいる。歳の頃は50代に近い。
私たちの上の階に住む彼は、日中アパートにいることは少ないようで、朝早く出て、夜遅く帰ってくるらしい。
最初にすれ違ったのは、私たち夫婦がこのアパートの内見に来た時のことだった。廊下で鉢会わせ、彼はぶしつけに「あなたは誰ですか?」と私たちに聞いて来た。
「Bonjour」という挨拶もなしにだ。
二回目に彼と会ったのは、引っ越し作業中だった。やはり彼から「Bonjour」という挨拶が発されることはなかった。
そして今度は「何をしているんですか!?」ときた。
なんて乱暴な男なんだ!あんなのが近所の住人になるなんて、いくらこちらが新参者とはいえ良い気持ちがしない、というのが私たち夫婦の思いだ。
また次に顔をあわせたところで、彼が心変わりして笑顔で「Bonjour!」と言う可能性は低い。できれば、ずーっとずーっと顔を合わせたくない。でも、そんなことを気にしてビクビクして生きるのはもっと嫌だ。
彼らしき人物がアパートに帰って来ている姿を居心地わるく見ていると、どうやら彼は独り住まいではないらしいことがわかった。中学生くらいの息子が出入りしていることがあるからだ。
いや、それにしても、その息子が毎日登校している姿を見たことは一度もない。そこで私は気がついた。その息子の母親らしき人を、引っ越し後一ヶ月経った今でも見たことがないことを。
そう、かの乱暴男は離婚しているらしいのだ。フランスでは珍しくもなんともない子持ち夫婦の離婚。そして、離婚した両親の間を、子供は行ったり来たりしながら成長していく。
彼が離婚した男であり、息子と一緒に住んでいるわけではないという状況に気づいた瞬間、彼の印象は、悲しみに変わってしまった。私の勝手な想像なのかもしれないが、彼は「孤独」なのだと思う。彼の背後に感じられるオーラは冷たく、強ばっている。
その彼の生き方が、新参者に対しての態度として現れてしまったのだろう。
今度彼とすれ違う時は、私から挨拶をしようか。そんなことを考えているけれど、引っ越し以来、彼とはすれ違うことがない。
Text/中村綾花