それは、心地の良い時間

お店は、想像よりもずっと大きかった。

灰色の壁に、重たい木の扉がついている、不思議な雰囲気を醸し出すその店の扉に、私はおそるおそる、手をかけた。

ぐっと押すと、少し扉が開く。店内から、優しいコーヒーの香りが、ふわっと漂って来た。 品の良いジャズが、耳をくすぐる。

私は完全に扉を開け、店内に一歩、踏み込んだ。

「こんにちは」
「こんにちは」

ほとんど同時に声をかけあった、カウンターの向こうにいる相手は、間違いなく、海老蔵(仮名)だった。

彼は私が誰か気づいたような顔をしてから微笑んで、
「yuzukaさんですね。お待ちしておりました。こちらの席へどうぞ」と、カウンター席に目を向ける。

私は頷いて、彼の目の前に座った。

「あ、このカウンター、一枚板ですか?」
私は思わず、声をあげた。

海老蔵(仮名)は一度目を丸くしてから、「そうなんです。分かりますか?こいつの良さが」と、こぼれるように笑った。

***

心地の良い時間だった。
マッチングアプリを使う奴は全員ヤリモクだとか、セフレがどうだとか、浮気がどうだとか。
そういう下世話なワードが一切受かんでこない、そんな空間だった。

「yuzukaさん、コーヒー苦手でしたよね。だから今日は、これで」

事前のやりとりでコーヒーが苦手だと打ち明けた私に、驚くことも嫌がることもなく、「それでは僕のおすすめを」と、返信してくれていたのを思い出した。

人は自分の本当に好きなものを否定されると、意地でもその良さを理解させようと、むやみやたらに押し付けてしまうことがある。だけど彼は、そういった感情からは、無縁なように思えた。

彼のこだわりのカウンターに置かれたのは、小さなティーカップだった。
そのティーカップからかすかにあがる湯気に、そっと意識を集中してみる。

「あ、ラベンダー。冬っぽい匂いですよね。」

言った後、「しまった、意味のわからない感想を言ってしまった」と思ってうつむく私に彼は、「たしかに。冬の味かもしれません。」と笑った。

***

「沖縄には、どうして?」

彼がグラスを拭きながら、私にまっすぐと視線を向ける。

私は「暖かいから」と言った。「海老蔵さんは?」尋ね返す私に、彼も笑って、「だいたい同じです」と言った。

そこからはしばらく、沖縄の話や私に恋人がいること、おすすめのインスタ映えするカフェの話など、そういう会話をただひたすらだらだらと咀嚼しあって、私たちはとても心地の良い時間を過ごした。

時計を確認すると、もう2時間はたっていた。

「そろそろ……」と腰をあげかけた私は、最後に、どうしても気になるこの質問を投げかけてみる。

「どうしてマッチングアプリを使おうと思ったんですか?」

彼は、私が想像する「マッチングアプリで出会う男性像」と、大きくかけ離れていた。
だからこそ、気になったのだ。

どうしてこの人は、わざわざマッチングアプリで出会いを求めるのか。使わなくたって、いくらだって、出会いがありそうなものなのに……。

彼は少し迷ってから、こう言った。

「マッチングアプリで出会う相手って、その瞬間に、お互いがそのアプリを偶然使っていなかったら、一生出会うことのできない相手だったと思うんです。なんというかそれって、他の出会い方より、よっぽど運命的で、ロマンチックだと思いませんか? 僕はそうやって、出会うはずのなかったいろんな人に出会って、僕が今まで知らなかった、色んな話を聞いたり、価値観に触れたいです 」

模範解答、と、思わず黙る私に、「例えば、ラベンダーが冬の味ってのも、初めて出会った感性です」と、彼はそう言った。

マッチングアプリに素敵な人は少ない でも…

帰り際、彼は自身でブレンドしたコーヒー豆を手土産に持たせてくれた。

来た時と同じ木の扉に手をかけ、ぐっと引く。

今度はなんとなく、その扉が、軽く感じた。

マッチングアプリに、素敵な人は少ない。
だけど多分、うまく使いこなした先に、「素敵な時間」は存在する。

それを手にするためには、あなた自身が相手を選別する能力、危機を管理する能力が必要になると思う。

それって多分、合コンも、ナンパも、そう言ったどんな出会いともあんまり変わらない。

自分がどんな相手とどんな目的で出会いたいのか。 それをちゃんと明確にして、相手に伝える勇気を持つこと。相手に流されないこと。

ちゃんと相手を選ばないと火傷するのは、全恋愛の共通点だ。

因みに一枚板のカウンターがある彼のお店は、今では私の、行きつけのカフェだったりする。

TEXT/yuzuka