1対1で完結する関係性なんてない。多様な「愛」を問う『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』

by Devin Avery

二次創作に縁のない人には「なんだそりゃ」感満載の話だとは思うが、界隈に深く沈むと、ときおり「カップリング論争」という、しょ〜もない抗争に巻き込まれることがある。これは何かというと、ある作品の登場人物をめぐって、「A×B」の組み合わせを楽しむ人たちと、「A×C」の組み合わせを楽しむ人たちとの間で、Aくんを取り合う解釈論争に発展し、火花がバチバチ飛び交ってしまうことである(「A×B」と「B×A」、どちらが攻めでどちらが受けかで論争になることもある)。

基本的に、平時の二次創作界隈は、検索避けなどを駆使して互いに上手に棲み分けをしている。が、同じ作品を愛好する者同士、互いの不用意な発言がふと目に入って衝突事故を起こすことを、完全には避けるのはやはり難しい。「く、くだらね〜!」という感じだが、二次創作におけるカップリングというのは各々の性癖と深く結びついていることが多いため、自分の好きな組み合わせを否定されることは己の性癖を否定されることであり、アイデンティティが危うくなる……というのは、私としてもまあ、まったく理解できないってわけでもない。

しかし、しかしである。思えばこのカップリング論争は、「人間が生涯をかけて本気で愛せる人はたった1人だけ」という、一夫一妻制に極めて近い価値観に基づいているよな〜と、論争を遠目で見つつ私は思ってしまったのだ。実際の人間の社会では、「A×B」の成立は、必ずしも「A×C」の成立を否定しない。「A×B」と「A×C」が同時に成り立つということは、十分に、普通にあり得ることではないか。

A×B」と「A×C」が同時に成り立つ小説

カップリング論争に巻き込まれたあとに、1991年生まれのアイルランド作家サリー・ルーニーの『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』を読むと、「そうそう、実際ってこんな感じだよね」と私は思う。主人公のフランシスは21歳、詩人でダブリンの学生だ。フランシスは、親友のボビーとともに、イベントで出会ったジャーナリスト・メリッサの家に招かれる。メリッサは結婚していて、家には夫で俳優のニックがいた。『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』は、主人公のフランシスと、この俳優ニックの不倫を中心に、物語が進む。

ニックは言う。「人は愛していても浮気するものなんだよ(p178)」と。このセリフは一見、社会的地位にも経済的にも恵まれている強者男性の体の良い言い訳に聞こえるが、読み進めていくと、どうもそうではない。表向きのニックは強者男性かもしれないが、精神科への通院歴があったり、その内面は極めて不安定だ。また妻のメリッサも、ニックとの生活を愛している一方で、浮気を繰り返している。

ニック×メリッサという夫婦の組み合わせがあり、ニック×フランシスという不倫の組み合わせがあり、ボビー×フランシスという友情と恋愛が交錯する組み合わせがあり、またメリッサ×ボビーという組み合わせがあり、そのどれもが、真摯で危うい。この小説を読むと、「ニックが、あるいはフランシスが、本当に愛しているのは誰か」なんて、考えても意味のないことだなと実感するのだ。