30代半ばで落ち込むのは「悪意なきほのぼの系の発信」だったりする。人間の多様性とは

Tom Chen

30代半ばの独身女性として生きていて個人的にいちばん心にダメージを食らうのは、親や上司に「結婚はまだか、誰かいい人はいないのか」とせっつかれることでも、20代の頃と比べて合コンやマッチングアプリでの男性の食いつきが明らかに悪くなったことでもない。もちろんまだまだそういったことに心を痛めている女性はいるだろうとは思いつつ、少なくとも私の周囲に限って言えば、親も上司も特に何も言ってこないし、まわりから独身であることを理由にあからさまなハラスメントを受けることもない。合コンやマッチングアプリに関しては、20代の頃からほとんどやったことがないので比較できず、したがって心を痛める理由になっていない。

ではどんなことでダメージを食らうのか? というと、映画やドラマやSNSで、「夫婦って、お互いの差異を認め合って、シェアしていくことなんだ」的な、おそらく本人には独身を差別する意図はまったくないだろうと思われる、ある種のほのぼの系の発信である。こちらからすると、「夫婦って、お互いの差異を認め合って、シェアしていくことなんだ」=「お互いの差異を認め合う」は夫婦関係以外ではできない=つまり独身者は他人との差異を受け入れられない未熟で視野狭窄な人間である、と言われている気分になる。アットホームでほのぼのしているものこそあまり配慮されずにこうした発信がなされるので、私はここ数年で「ほのぼの系こそ、要警戒」と身を固くするようになってしまった。最近になっていわゆる「エモい」文章の欠陥やそれらが見落としているものについてようやく指摘されるようになったけど、「ほのぼの系」にも、個人的には嫌な思いをさせられたことが何度もある。

人との関係性について、普遍的なことって導き出せないんじゃないか

チョン・セランの『フィフティ・ピープル』という小説がある。タイトルのとおり、登場人物が50人(著者いわく、正確には51〜53人)いる。主人公といえる人物はおらず、韓国のとある大学病院を中心舞台に、50人それぞれの人生が描かれるオムニバスだ。1つ1つは独立した話なのだが、あっちの話に出てきた人物がこっちの話に顔を出したり、また最終章で50人すべてではないが多くの登場人物が集結したりするので、短編集のように独立した作品としても、また長編小説としてまとまりのある作品としても読める作りになっている。ちなみに、50人の年齢やジェンダーや属性はバラバラで、ストレートもLGBTも、子供も若者も高齢者も、経済的に厳しい人も裕福な人も登場する。彼らには大学病院という中心以外、ほとんど接点がない。

約50人分の人生を眺めながら実感することは、「すべての夫婦に通じる普遍的な法則なんてない」とか「すべての親子に通じる(以下、同)」とか「この世に同じ境遇にある人なんていない」とかいう、言葉にすると実に陳腐なものだ。お互いの差異を一切認め合うこともシェアすることもなくそれでも最後まで添い遂げた夫婦なんてゴマンといるだろうし、お互いの差異を認め合える未婚のカップルや友人関係だってある。人との関係について言えるのは「私」と「あなた」がどうであるかだけで、親子はこう、夫婦はこう、恋人はこう、友人はこう、その他もろもろ、普遍的なことってほとんど導き出せないんじゃないか。