「こんなこと思ったらダメなんじゃ」と本音をごまかす。フェルナンド・ペソアの詩を読もう

寂しがり屋のひとり好き

海を見ている女性
by Fuu J-

「寂しがり屋のひとり好き」という自己紹介文を、昔はよくSNSのプロフィール欄などで見かけたものだけど、最近はあまり目にしなくなった。私と周囲が年をとっただけで20代前半くらいの女の子はいまだに使っているのか、あるいは「それってただのめんどくさいやつじゃん」ということが周知徹底されて、廃れたのか。しかしまあ、程度の差こそあれ、またその事実をプロフィール欄でアピールするか否かの違いこそあれ、人間は本質的に誰もが「寂しがり屋のひとり好き」だと私は思う。社会に居場所を作って、誰かと交流を持たなかったら死んでしまう。でも、ひとりの領域がまったくなく四六時中誰かに時間を捧げていたら、それもまた息が詰まってしまう。

孤独は私を絶望に追いやるが、他人といるのは気が重い。他人の存在は私の考えをそらしてしまう。私は、特別な気晴らしを感じながら他人の存在を夢見るが、その仕方は分析的に定義することはできない。(p.217)

こんな詩を『不穏の書、断章』に遺したポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアもまた、「寂しがり屋のひとり好き」だったみたいだ。かつてプロフィール欄にこの自己紹介文を入れたことがある人にも、現在進行形で入れている人にも、また友人のプロフィール欄で見かけたことがある人にも、今回は『不穏の書、断章』とフェルナンド・ペソアについて紹介させてもらいたい。

裏アカを作りまくり!?

日本ではあまり馴染みがないペソアだけど、本国ポルトガルでは、お札に印刷されたこともあるくらいの国民的作家である。そんな「寂しがり屋のひとり好き」ペソアは、ちょっと変わった人でもあったらしい。

リスボンの貿易会社で商業通信文を翻訳するのが本業で、詩人として脚光を浴びるようになったのは彼の死後。生前に書きためた詩はフェルナンド・ペソア名義のものだけでなく、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスなどなど、数々の異名によって遺されている。異名は「チェコ好き」と「和田真里奈」みたいに単に筆名がいくつかあったレベルではなく、それぞれの身体的特徴や人格、経歴、またホロスコープまで、あくまで別人としての設定が作られていたというからすごい凝りようだ。

告白すると私も過去に一度、Twitterで裏アカを作ってまったくの別人になりきってみたことがあるが(!)、なかなか呟きが思いつかず継続しなかった。そのため、今でいう裏アカ作りまくりのペソアの想像力がどれだけたくましいか実感できるのである。ちなみに『不穏の書、断章』の中の「不穏の書」は、キャラ設定が極めて本人ペソアに近いとされるベルナルド・ソアレス名義のものだ。

やったことはちょっと変わっているけど、ペソアの詩には、誰もが多かれ少なかれ持っている「世界と自分の間のズレ」が書かれている。みんなが普通にできることが、私にはできない。みんなが何気なく手に入れるものが、私はどんなに願っても手に入らない。
倦怠、疲労、違和感、無気力。「私ってめんどくさいやつなのかな?」と思い悩んだときにペソアの詩集を開くと、少なくとも100年近く前のポルトガルに1人、自分と同じような超めんどくさいやつが存在していたことがわかって、少しだけほっとする。