「自虐」は有効な処世術なのか?『負け犬の遠吠え』に息苦しさを感じた理由

悩む女性 Daria Shevtsova

『負け犬の遠吠え』。2003年に出版されベストセラーになった酒井順子さんのこの本を、読んだことはなくても、そのタイトルを知らない人はいないのではないだろうか。ちなみに負け犬の定義は「未婚、子ナシ、30代以上の女性」とのことで、私はばっちりこれに当てはまっている。

ここできちんと理解しておきたいのは、この本の著者である酒井さんが、2003年の時点で「負け犬」の定義に当てはまる当事者であったということだ。したがって、この本はもちろん、「未婚、子ナシ、30代以上」の女性を差別したり貶めたりする目的では書かれていない。

「既婚子持ち女に勝とうとなど思わず、とりあえず『負けました〜』と、自らの弱さを認めた犬のようにお腹を見せておいたほうが、生き易いのではなかろうか?」──酒井さんは、本書でこう述べる。「早く結婚して子供を産んだほうがいいよ」と諭してくる周囲に対して、無理に勝とうとするのではなく、負けたことにしてさっさと戦線離脱してしまったほうが賢い。本来は人生に勝ち負けなどつけられるものではないし、勝負になど興味はないからこそ、それで相手が満足するならいいやと勝ちを譲ってあげられるのだ。つまり、本書は一種の自虐、処世術として書かれているのである。

当事者による自虐がそのまま「差別」になってしまう現象

しかし『負け犬の遠吠え』が有名になることによって、「負け犬」が本来持つ自虐や処世術としての意味が薄れ、字義通りの「未婚、子ナシ、30代以上の女性への差別表現」へと姿を変えて認識されてしまうこともあった。本書が出版されたのは16年も前だが、私自身も今回、読んでみて少し息苦しく感じてしまった部分がある。

華麗にナイフを振り回して手品をやるつもりが、誤って自らの腹を本当に刺してしまう。「自虐」は、プリンセス天功の大脱出劇のごとく鮮やかだが、危険や事故もつきまとう。ただ、きちんと決まると本当にプリンセス天功レベルの威力があり、既存の悪しき価値観を転覆させ、過酷な環境にいる個人に勇気を与えることができる。だから私としては、自虐表現を一概に「だめ」と言うことは避けたい。ファーストクラスの列から排除された黒人が、「俺は金持ってるだけのニガーだよ。軍人でもないし、並ぶ列を間違えたわけでもないよ」と白人に言い返してまわりをあっと言わせるなど、本当に、有効に働くシーンもあるのだ。ただこれも、「ニガー」という言葉が他の黒人の気持ちを傷つけてしまう可能性も、なくはないのだが。

『負け犬の遠吠え』は自虐であり、処世術である。差別ではなく、個人を勇気付けるために書かれている。ただ、手品で使うはずのナイフを自らの腹に刺し、痛い目を見てしまうこともある。2003年から2019年へと、前進していないように見えて、少しは時代が変化したせいもあるのかもしれない。