高望みしない「普通」なんて生き方は、逆に自分を追い詰める

普通の女性 StockSnap

婚活をしている女性は、たまに「普通の人でいいんだけど」なんて言ったりする。「普通」は、高望みなんてしていない、ただ目立った欠点がなければいい、そういう意味を確かに持っている。もっとも、こういう女性の言う「普通」 は、正社員で、年収◯◯万円以上で、まあまあの見た目で、そこそこの恋愛経験があって……など、そのすべての条件を満たす未婚の男性は日本に数%しかいない、みたいなことになりがちだ。でもまあ、結婚相手や自分の人生に対して「高望みなんてしない」「まあまあでいいんだけど」と思う姿勢自体は、悪く言われるようなものではない。

鷲田清一さんのエッセイに、『普通をだれも教えてくれない』というタイトルのものがある。このタイトルは、村上龍の『イン ザ・ミソスープ』のなかにある、「普通に生きていくのは簡単ではない。親も教師も国も奴隷みたいな退屈な生き方は教えてくれるが、普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれないからだ」という、登場人物のセリフからとったものらしい。

『普通をだれも教えてくれない』は、1998年が初版発行だ。でも、多様化する今の時代に、このタイトルはますます重さを増しているように思う。

「普通」の、もともとの意味

今の「普通」は、「高望みしない、目立った欠点がなければいい」くらいの、中立的な意味を持っている。しかし鷲田清一さんのエッセイによると、「普通」は、もともとはどちらかというとポジティブな意味を持つ言葉だったらしい。

いわれてみれば、1925年に「普通選挙法」ができている。このときの「普通」が持つ意味は「平等」だ。身分、教育、信仰、財産、納税額、そういったものにとらわれず、すべての成人に選挙権があたえられる。もっとも、このときの普通選挙法で平等に選挙権が与えられたのは、あくまで「男子」である。でもたしかに「普通」とは、平等であること、差別しないこと、もともとはそういう意味だったことがわかる。

ここで言葉の歴史を追うことはしないけれど、それにしても今の時代に、「普通の人」や「普通の生き方」を求めるのは、やっぱりちょっと的外れだと言わざるを得ないんじゃないか。婚活している女性のいう「普通の人でいいんだけど」に代表されるように、「普通」は、実は追い求めていくとキリがないからだ。

それだけだったらまだいい。「普通」が「だれでも持っているもの」「どこにでも普遍的にあるもの」というニュアンスを持っている以上、それを手にできなかったときに、「高望みしない」くらいの意味だったその言葉は、自分を追い詰めることになりかねない。

「普通」に追い詰められないために

「普通はこうする」「あなたは普通じゃない」「普通の人間ならできるはず」。「普通」はどうも、そこからはみ出してしまう人間を縛り、自由を奪う言葉に聞こえてしまうことがある。

本当はだれもが、「普通」からはみ出してしまう要素を何かしら持っている。ところが「普通」という言葉は、家庭環境や経済状況や能力など、だれでも持っているわけではないものを、だれでも持っていて当然という意味にしてしまいがちだ。やっぱり、取り扱いに十分気を付けたほうがいい言葉だと私は思う。

「高望みしない」のは、たしかに現実的で立派な心がまえではある。しかし、自分と他人を攻撃しないためにも、結婚相手や人生に求めるものを2つか3つ決めてしまって、それを貪欲に求めたほうが、逆に生きやすくなったりはしないだろうか。私の場合は、「読書」と「旅」にかけるお金と時間があることが、人生における最重要事項だ。そのため、働き方において正社員という安定した地位や収入は捨ててしまっている。パートナーは、まあいればいいなとは思うけれど、別にいなくてもいい。

やっぱり変な生き方をしている自覚はあるので、たまに心細くなることがないわけではない。でも、「普通」なんて幻想はさっさと捨ててしまって、欲しいものだけを貪欲に求め、あとは偶然に身をまかせる。鷲田清一さんのエッセイを読んでいると、それでいいんじゃないかなと思えてくる。

普通の人などどこにもいないし、普通の生き方などない。エッセイには「普通」とは関係ない話もけっこうあるんだけど、この本を読んでいると、そのことがよくわかる。