性愛で「めでたし!」にできない関係

『裏ヴァージョン』を読んで思うのは、性愛を介さない人間関係のややこしさである。もしも昌子と鈴子が男と女だったら、あるいはレズビアンだったら、すでに同居しているほど密接な心のつながりがある2人なのだから、その溝は恋愛してセックスすれば大団円で解決するんじゃないかという気がする。「恋愛関係になってとりあえずハッピー!」ってやつだ。しかし、昌子と鈴子は女同士で、レズビアンでもない。よって、性愛の力で強引に「めでたし!」にできないのである。

性愛を介さない2人の関係は、単純化できない。でも、単純化できないからこそ、胸に迫るものがある。高校時代からずっと執着し続け、大人になって挫折を経験した昌子に、小説を書かせることで少しでも楽しく遊んでほしかったという鈴子の気持ちは、これはやっぱり「愛」なのではないか。恋愛ではないし、友情ともちょっと違うけれど、しかし特大の愛――オタク風に言えば、「クソデカ感情」というやつなのではないか。昌子と鈴子の濃厚な関係は、恋愛だけが人間を成長させるかのような、異性愛規範の強いこの社会へのアンチテーゼのように私には思える。

二次創作の界隈にいると、昌子と鈴子のような関係性の女性たちをたまに見る。2人とも既婚者だったり、子供がいる場合もあるけれど、恋人や夫婦とは全然違うベクトルの、濃厚な関係を築いている(ように私には見える)。 『裏ヴァージョン』 を読むと、愛は性愛だけに限らないのだと、私は強く実感できるのだ。

Text/チェコ好き(和田真里奈)