フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を初めて読んだ20代前半のとき、私が抱いた率直な感想は「なんかよくわかんない話だな」というものだった。だって、自分が17歳でまだ親の保護や経済的な援助が必要な年齢だったとして、いくら父子家庭とはいえ、父親が半年ごとに女を取っ替え引っ替えするような放蕩野郎だったら許せます!? 私だったら、「恋人にお金を使うために私の塾代や大学の学費を出し渋るようになるのでは……と、心穏やかではない日々を過ごすことになってしまったと思う。
もちろん、子供側がもう親の経済力を必要としていない大人だったら「好きにすれば」という感じなのだが、まだ17歳だったときの記憶が生々しく残っていた20代前半の私には、「こんな父親と仲良くやれる主人公セシルの気持ちがいまいちよくわからん」と主人公の存在が非現実的でピンと来ず、『悲しみよこんにちは』はそこまで心に響かなかった小説として、本棚の奥にしまわれたのだった。
しかし、今回30代後半になってもう一度この小説を手に取ってみると、昔はよくわからなかった『悲しみよこんにちは』の魅力が見えてくる。オバサンになる楽しみってこういうところにあるんだよな! とつくづく思う。何より、今の私は主人公セシルよりも、父親の恋人である40代のアンヌのほうにぐっと年齢が近づいた。というわけで、今回はサガンの『悲しみよこんにちは』の話です。
主人公セシルが恐れたもの
『悲しみよこんにちは』の主人公は、17歳のセシル。放蕩癖のある父レエモンとけっこう仲良く父子家庭をやっているが、そんな生活の中で、父がついにある女性と結婚を決める。相手は亡き母の友人でもあったアンヌで、聡明で美しい地に足のついた40代だ。最初はアンヌを慕っていたセシルだったけど、彼女が母親のように自分の私生活に口出しするようになってくると、徐々に「こいつウザいな」と思い始める。そして、父の元恋人であったエルザと自分の恋人シリルを使って工作をし、父とアンヌを別れさせる作戦を実行してしまうのである。
改めて読んでみると、「父がいろんな女性を取っ替え引っ替えするよりは1人に決めてくれたほうが、私の学費等を出し渋る可能性が減るのでいいのでは?」とか考えてしまう私よりも、セシルのほうが父への愛が深いことがわかる――我が父よ、財布としか思っていなくてすまぬ。
セシルはレエモンの娘だけど、同時に正妻のような立場でもあり、自分の地位がアンヌによって脅かされることを警戒したのだろう。しかしそれと同じくらい、セシルは父との「今のこの生活」が変わってしまうことを恐れたのだとわかる。父は父でアバンチュールを楽しみ、自分は自分でボーイフレンドと遊び、ときおりそれを報告し合う悪友のような関係が、決定的に壊れてしまうこと――。
主人公のセシル、そしてこの小説を書いた時点のサガンはそれぞれ17歳と18歳なので、それを30代後半になってやっと理解できるというのもおかしな話なのだが、私は十数年かけてようやく、セシルの気持ちが少しわかるようになった。
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