拳と拳を交わそうぜ。東京には人を見た目で判断する「村」が点在する

20代の頃は東京が全てだと信じていたのに、最近は人と会うたびに「東京に疲れた」と愚痴をこぼすようになってしまった。

友達も、ミニシアターも、美術館も、いい感じの本屋も服屋も、東京に行けばなんでも揃っていると思っていた。
実際、19歳の頃の私は地元に友達がいなかった。SNSで仲良くなった人は大体が東京在住。みんな定期的に集まって飲んでいて、それがすごく楽しそうに見えて羨ましかった。
当時仲良かった女の子に言われた「こっちに来なよ」のたった一言で私はすんなり上京を決めたのだった。
あの頃は本当に東京に行けば友達がいたし、遊んでくれる人たちが待っていたのだ。

東京の良さは自由で気楽に暮らせるところだと個人的に思う。
私の地元じゃ町内会で毎月ゴミ捨て場に当番は立っていないといけないし、詳しいことは親任せなのでよくわかってないけど水道の使用量を測って集金までする。
小さなお祭りがあるときも何かしら手伝うし、はっきり言ってめんどくさい。やらずに済むならやりたくないのが本音だ。
東京で一人暮らしすると町内会などとは無縁に暮らすことができる。近所の人に「あの人毎日家にいるけど何してるんだろう」と思われる心配もない。お互いが “赤の他人”でいられる。
東京で得られる自由というのはすなわち“無関心・無責任でいられる”ということなのだろう。

東京の「村」が居心地悪い

ところが最近居心地の悪さを覚えるようになった。
東京の中に無数に点在している小さな村の存在を知ったことが大きなきっかけだ。
例えば高円寺には高円寺の人たちだけで集まる村があり、特定の職業の人たちだけが集まる村があり、同じ趣味の人たちだけが集まる村があり……様々な村がそこらじゅうに潜んでいる。
それが私には健全なものには感じられず、みんなどこか居心地の悪さを抱えながら仕方なく座布団に座っているように目に映るのだ。
同じ村の中で誰がくっついたのだの離れただのがあったり、内心見下していたり、結局話すことも大してないから酒で酔っぱらって下品な話をして一瞬だけ盛り上がったつもりになって、締めくくりに路上でゲロを吐いて帰る……まあ私はどの村にも歓迎された試しがないからこれには半分くらいは私怨が入っているので、みんながみんなそんな感じではないとは思う。
とはいえ、ちゃんとしているとしても歓迎する人としない人を彼らは進んで選んでいるのだから、結局のところくだらない人がやっぱり集まっているんじゃないかというのが私の率直な感想である。
村人はあの、「ふ〜ん」とじっくり頭のてっぺんから足の先まで観察するのを実に2秒でやってのける。2秒で何がわかるのだろう。
服装や髪型、身につけているもので「なるほどね」と少ない人生経験で何かわかったつもりになって人を判断しているあの感じ。
いやいや、拳と拳を交わそうぜ。

人を見た目で判断するなってあれほど私たちは10代のころ親や教師に反抗してきたはず。なのに彼らは、あの頃信用したくなかった大人たちと同じ側の人間にすっかり変わったようである。
彼らがいよいよ30代に突入して、だんだん社内でも上の立場になり、後輩に社会で生きることの厳しさを説く側になっているのだと思うと恐ろしい。
私はいまだに中学3年生の頃に教頭先生が言ってたことを思い出す。1年生と2年生はあなたたち3年生の背中を見て成長する、だから指先まできちんとピシッとすること……。
果たして今の若い世代は今の大人たちの背中を見て、何を思っているんだろうか。