女性として長年生きていると、ふと疑問に思うことがある。それは、「隣の女性ははたしてエロマンガやエロビデオ、いわゆるポルノコンテンツの類をどれくらい摂取しているのであろうか?」ということだ。もちろん人それぞれなのはわかっているけれど、「ほとんどの女性はポルノの類をまったく見ません読みません」という前提で話が進んでいくかのように思えることが、ときどきある。
人に聞くならまず自分の情報を開示せねばならない。というわけで自分自身の話をすると、私は「ポルノの類をまったく見ない読まない」女性ではない。それどころか、現在、私の一人暮らしの部屋はエロ本だらけである。だって二次創作をやっているからね! 同人誌即売会があるたびに10冊、20冊と好きな作家さんの本を買うので、自ずとエロ本だらけになってしまうわけ。高齢独身女の部屋がエロ本だらけだと、万が一私が死んだときにネットで「ナントカカントカの末路」とか書かれてすごい悪口を言われそうだけど、死んだあとにどう思われても知ったこっちゃないのであまり気にしていない。何より、ブログや今まさにこのコラムで「私の部屋、エロ本だらけだよ!」と堂々と言っているので、逆に恥ずかしさが全然ない(それもどうなんだ)。
しかし、学生時代の友人やライター仲間などまわりの女性たちのポルノコンテンツ事情となると、実はまったくわからないのである。まさか、摂取量ゼロ!? いや、とある友人は私におすすめのBLマンガを教えてくれたので、彼女は「こっち側」だろう。また別のとある友人は若い頃に夢小説を読んでいたことを告白してくれたし、さらにとある友人は……と考えていくと、意外とみんな「こっち側」だったりするのだろうか。守如子さんの『女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム』を読んで、そんなことを改めて振り返ってみたくなった。
女性向けエロマンガの鍵は「危険じゃないこと」
『女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム』は、タイトルのとおり、女性向けポルノコンテンツとフェミニズムについて考察している研究書だ。第1章ではフェミニズムが「ミソジニーと女性の搾取」だとしてポルノ批判を行なってきた歴史を紐解き、第2章以降では具体的な女性向けポルノコンテンツの分析に入っていく。分析対象になっているのは、主に女性向けエロマンガである「レディコミ」と、多くの女性の心のオアシスであるBLだ。
個人的に面白かったのは、男性向けエロマンガと、レディコミやBLの比較である。挿入するほうを「攻」、挿入されるほうを「受」とすると、とにかく「受」の女性を魅力的に描くのが男性向けエロマンガ。「攻」の男性は後方に追いやられ、行為中の顔などほとんど描かれずに終わることもある。一方、レディコミやBLを見ると、「受」はもちろん行為中の「攻」の表情もしっかりと描かれるほか、さらにモノローグによって登場人物の内面がきちんと描写されていることが多い。よって、たとえそれがレイプものであっても、「攻」の行為が「これは過剰な愛ゆえの行動なのでーす!」と読者にわかるようになっている。本書の分析によると、女性向けポルノコンテンツの多くはこういったさまざまな工夫により「こわくない、受が(根本的には)嫌がっていない」ということが明示されており、脱危険化されていることが特徴だ。
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