「『怒りは尊い』ということを
もっと知ってほしい」
普通の女が普通の人生を送る地獄を描いた映画『82年生まれ、キム・ジヨン』についてのインタビューを受けたとき、私は「『怒り』って悪だとされているけど、喜怒哀楽のなかで最も生命力に溢れているし、変化につながる、尊い感情なんですよ。(中略)物語を大きく進めて現状を変えていくのは、現実世界でも怒りの感情なんです。すぐに変わることは難しいと思うけど、『怒りは尊い』ということはもっと知ってほしいです」と言った。言いながら「あれっ、我ながらいま私なんかいいこと言ってるじゃ〜ん!」と思ったし、実際インタビューが公開されたときもこの一文には結構な反響があったので私はさらにしめしめとほくそ笑んだ。
ところでだ、じゃあ現状私が生活の中で尊い怒りを発しているかというと全然そんなことがない。思えば子供のころから怒りという感情があまりなかった。なので同級生にいじめられても「なんでこの人たちはこんなことをするのだろう……ふしぎ……」と思ってぼんやりしていた。ところがある日イジリがあまりにも長く続いたので、これをやめさせるのにはどうすればいいのだろうと考えて、考えてから思い切り机を蹴飛ばしてみた。思ったより大きい音を立てて机は倒れて、それだけでいじめっ子たちは二度と私をいじることはなくなった。これだけでよかったんだ! 怒ってるっぽく見せるだけでよかったんだ! すごい発見だった。「怒り」はすごい。だからチンピラとかが怒ってすぐ人を殴るとかすると「おお、すげえ!」と思う。人を殴る是非は置いといて、脳内で「感情! 怒り! 行動!」が直結していることを尊敬してしまう。
「でもツイッターとかでお前よく怒ってんじゃん」って思った人いると思うんだけど、私が怒ってるっぽいことを書いたり言ったりするときは、どうすればキレてるっぽく見えるか熟考した上で最も効果的だと思ったものを書いている。私がネット上で怒ってるっぽいことが言えるのも、インターネット上ならいきなり殴られたりレイプされたりする心配がないからだ。「ネット上では女は愛想笑いをしない」という言葉は大好きだ。でも逆に言えば「現実世界では女は愛想笑いをする」になる。
この間スーパーですれ違いざまに男にケツを撫でられたとき、私は呆然としてしまって何もできなかった。びっくりして固まってしまって、声一つ上げられなかった。
すれ違いざまにケツを撫でられる、胸を掴まれるなんて小学生の頃から何度も何度もされている。次にこんなことをされたら相手の両目を抉り出してから警察に通報するぞと何度も何度も決意を固めてイメトレしているというのに、30後半になってもこの体たらくだ。
でも、じゃあどうすればよかったんだろう。走って追いかけて捕まえる? それで相手からボコられたら一生のトラウマになるのではないか? 誰かに助けを求める? 本当に誰かが協力してくれるの? 無視されたら? 冤罪だって薄ら笑いされたら? じゃあ警察に行って防犯カメラを確認してもらう? それで「へえ、臀部を撫でられただけなんですよね?」とめんどくさそうな警察官の顔を拝みに行く? ものすごく運がよく犯人が捕まったとして、少しの間勾留されてすぐ出てくるに決まっているし、そしたら私がスーパーの近所に住んでいることはもう知られてるわけだから最寄駅ででも張っておけば私の家を突き止めることなんて容易だろうし、それで復讐をされたら? 顔に塩酸ぶっかけられたら? 自衛のために引っ越す? ケツ撫でマンのためにわざわざ何十万円もかけて引っ越すの? 引っ越し先でもいつ誰にケツを撫でられるか分からないのに?
なので私の「怒り」はいつまで経ってもケツ撫でマンをその場で殴るとかいう方向性に行かない。せいぜいこうやって後から思い返してはネチネチと書くだけだ。本当はその場でキレて暴れまわりたい。過剰防衛で捕まっても構わない。それくらい私は怒っている。でもまたケツを撫でられても何もできない自分が簡単に想像がつく。私の「怒り」が現実世界での行動に結びつくことはまずない。
なので男から「女性差別、性犯罪に対して女はもっと怒るべきだ!」とか言われるとそのセリフを言ったヤツに怒りが湧く。女が現実世界で「怒り」を表明することにどれだけリスクがあるのかわかってんのか。
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