何をおいしいと思うかも、何を苦と思うかも人それぞれ。どんな人の「食」も「生」も否定しない『食べる私』

by Louis Hansel

前回の連載でもちらりと触れたが、私は物心ついたときから「食べること」や「料理」へのコンプレックスが、かなり強いほうだったと思う。基本的に少食なので、親や親族に「いっぱい食べなさい」「どうして食べないの?」と言われると、たとえその根底にあるものが愛情だとわかっていても、小さいときは物陰でよく泣いていた。おまけに私が小学生時代を過ごした90年代は、田舎ではまだ「お残し厳禁」の風潮が強く残っており、お腹いっぱいなのに給食を昼休みに一人泣きながら食べさせられたりとか……私はもう30代も半ばなのだけど、ほんと、思い出すといまだに涙が出てきてしまうくらいのトラウマなのですよ。

そんな中、唯一の救いだったかもしれないのは、私の母があまり料理が好きでも得意でもない人だったことである。メシマズ母だったわけではないが、「クッ◯ドゥー」などを使って調理することに躊躇いがない人で、私が食にまったく興味を示さなくても、母はそれほど傷つかなかったと思う。このあたり、蓼食う虫も好き好きというか、親子すらも相性次第というか……料理が好きでも得意でもないお母さんが、逆に子の救いになることもあるのだ。このことは、もっと世の中に周知されてもいいと思う。

そんなわけで、平松洋子さんの『食べる私』という本を拝見したときも、正直「苦手なタイプの本かもしれない……!」と真っ先に身構えてしまった。いわゆる、丁寧な暮らし的な本かと。しかし、エッセイストの平松洋子さんが各界の著名人に行った「食」についてのインタビューをまとめた本書は、「食」へのコンプレックスが強い私をも「これでいいんだ〜」とほっとさせてくれる内容だった。

「あれ、私ってけっこう普通かも?」と思えてきた

『食べる私』は土井善晴先生や発酵学者の小泉武夫さんなど「いかにも」な著名人へのインタビューももちろん含まれているが、冒頭を飾っているのは「おいしいものは無駄」と言い切るデーブ・スペクター氏である。食事に情緒は邪魔、和食のだしの味を「つまんない」と一刀両断にしており、「食」の本の冒頭がこれでいいのかと笑ってしまう。デーブ氏のお母さんは料理が上手ではなかったそうで、私も共感しながら読んだ。あっけらかんと「食」を語るデーブ氏からは、こだわりがないということは、すなわち自由であるということなのではないかと考えさせられる。

他にも、エナジードリンクでカフェインをキメながら執筆に励んでいるという詩人の伊藤比呂美さん、「丁寧な暮らしからは降りる」と言い切っているジェーン・スーさん、「(料理で量ったりするのは)飽きちゃうっつうか、めんどくさーい」と語る光浦靖子さんなど、いろいろな人が「食」についての正直な気持ちを明らかにしている。

私はこれまで、自分は極端に食への関心が薄く、極端にバカ舌なのだと思い込んでいたけれど、本書を読んでいるうちに、「あれ、私ってけっこう普通かも?」と思えてきた。ちなみに光浦靖子さんは「(食材を)切ることはまったく苦じゃない」と語っているが、私は料理において、もうとにかく肉や野菜を切るのが大嫌い。切るのさえ誰かが代わりにやってくれたら、煮るなり焼くなりはいくらでもやるのに……と思う。だから休日に「作り置き惣菜」ならぬ「切り置き野菜」を用意してしまおうと思って、数時間ただ無心で切った野菜を平日に使い回すというルーティンを組み込んでいる。もちろん、スーパーのカット野菜も多用している。本当に、何をおいしいと思うかも、何を面倒と思うかも、何を苦と思うかも、人それぞれだ。