二次創作界隈でたまに言われるのが、「順調にキャリアを重ねている人ほど、同人誌を作ってイベントに出るべき」という格言である。何の冗談かと思うかもしれないが、私はこの格言を聞いたとき、思わず「なるほど」と頷いた。その理由を一言で言うと、同人誌を作るとき、人は謙虚にならざるを得ないからである。
まず、多くの二次創作は「萌え」から始まるので、自分がキャラに萌えている=欲情しているという事実を直視しなければならない。そこには誤魔化しのきかない、取り繕うことのできない自分がいる。これがとても恥ずかしくうしろめたく、よって、謙虚さに繋がる。このアイディアは世に訴えるべきオピニオンでもなければ、役に立つTipsでもない。誰からも必要とされていない。とにかく、「こんなことを考えついてしまって大変申し訳ありません」という気持ちから、二次創作はスタートする。
そこからさらに、自分の妄想を人様に見せられるよう小説なりマンガなりに体裁を整えていく過程で、「ねえ、どこにどう欲情したの? 言ってごらん?」というセクハラ質問をセルフで投げかけ続けなければならない。キャラのどこにどう萌えているのか言語化しないと作品にならないので当たり前だが、これがまた苦行である。よって、ここでも自分は自分によって大いに辱しめられ、謙虚さに繋がる。
で、言ってみればそんなセルフプレジャーの末のわけわからんもんを、同人誌としてイベントに出すと、読んでくれる人がいる。お金を出して買ってくれる人がいる。さらには、長文の感想をくれる人がいる。自分のいちばんしょーもない部分を、他者が肯定してくれる。これは、謙虚にならざるを得ないだろう。謙虚になって、自分が他者からいただいた肯定を、自分もまた他者に返そうという気持ちになる。どんなに年をとっても偉くなっても世の中のことがわかってきても、自分はしょーもないただの人間なのだと実感できるのだ。まじで、全経営者のキャリアプランに組み込んだほうがいいと思う。
というのは半分冗談で半分本気だが、今回語らせてもらいたいのは幸田文の『台所のおと』だ。
『ひとり暮し』の上手い/下手はどこにあるのか
いつも以上に前置きと本編の関連がない気がするがそんなことは無視して話を進めると、『台所のおと』は幸田露伴の娘である幸田文による、10作品が収められた短編集である。全体的には、ある程度の年数を共に過ごした夫婦の物語が多く、恋ではない、愛というほど温かでもない、ただ「情」だって確かに愛の種類の一つなのだと本を通して実感させられる。が、なかでも私が今回紹介したいのは、『ひとり暮し』。夫と離婚し、娘も結婚して家を出て行った主人公が、改めてひとり暮らしを始める――というのがあらすじである。
主人公はひとり暮らしをしながら、同じくひとり暮らしをしている隣人を観察する。清潔で整っているが、どこか薄っぺらい気のする青年。夫に捨てられた、惨めな中年の女。髪の手入れを欠かさない粋な老婆。植木職の爺さん。それぞれを観察しながら、「ひとり暮らしが上手い/下手」とはなんだろうと、主人公は考える。
小説の中で結論めいたものが提示されるわけではないが、やっぱり「ひとりでも生活を彩れる人」は、ひとり暮らしが上手いのだと思う。誰にも見られていないけど自分の中で必ず守るルーティンがあるとか、近所の人とのちょっとした付き合いが上手いとか、自分自身への手入れを欠かさないとか。そしてそういった隣人をちょっとずつ観察しながら、主人公は「ひとり暮らし」を学んでいく。
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