家族と和解し向き合える日は来ないかもしれない

ここ1年くらいは、興味のない弟や妹の近況に混ざり、祖父母の介護や母自身の病気、生活やお金の問題を相談されるようになった。やはり大きく感情が動くことはないのだが、どんな対応が適切なのか、どうすれば母が満足するのかわからなくて押しつぶされそうになる。LINEのやりとりでは、「困ったことがあったら言ってください」と伝えているが、本当は手を貸す気なんてまったくない。

本音を言えば、巻き込んでほしくなかった。その癖、母に認められなかった過去の自分を救うために、今からでも家族の仲を修復する努力をすべきなのではないか? という気持ちも心のどこかにはある。「引越し先を探している」という母に、「じゃあ私が家賃を出すから一緒に住もうよ」とでも言えればよかったのに、一緒に住んでいた頃の窮屈な気持ちを思い出すと絶対にそんなこと言えない。自分のことしか考えられない部分にも嫌気がさす。

子どもの頃と何も変わらないな、と思う。母の吐き出し先や支えになった私は何に頼ればいいんだろう。どんな反応をすれば母は満たされるのだろう。家族として何が模範解答なのだろう。私にはわからない。顔色を伺い続けるところも変えられない。だから家族に興味が持てなくて、周囲の人との人間関係もうまくいかない。自分に何が足りないのかわからなくて、その足りない何かに失望をする。

そういえば私の記憶のなかで家族を信じられた瞬間って一度だってなかったな。私は人のことを信じられない。信じた先に何があるのか、常に自分の味方でいてくれる人がそばにいてくれるという感覚がまったくわからない。だから私にとっての家族は興味の対象外で、その気になればいつでも切り捨てられる存在なのかもしれない。決して実行は移さないけれど。そんなことを頭のなかを駆け巡る。

やっと家族のなかから抜け出せて、必要最小限の連絡を取りながら一人で暮らしてきた。私にとってのその自由は幸福の象徴で、この生活が変わらないままで、ずっと続けばいいと思っている。でも、家族も私も老い、死に向かっていく。時間が経てば、何かが変わる。よいことも、悪いことも。死ぬまで同じことなんてこの世にひとつだってない。

でも、分かったしまった。私はきっと最後まで興味を持てずに、家族という最も近しい人間関係すらもわからないままであることが。周囲の人の持っている普遍的な人間関係を、この先も手に入れられないことが。日々老いていくなかで、感情が緩やかになり、色んなものが許せるようになる。家族を許せる日が来ても、壊すものがなければ修復できない。家族というひとつの人間関係を少しも築けなかった私が家族と和解し向き合える日は、来ないのかもしれない。

Text/あたそ

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