今の私は、思い描いていた自分とどれくらい違う?人生の良し悪しはもっと深いところにある

by Tetiana SHYSHKINA

自分のブログやコラムなどで度々言っているように、私は、20歳の頃からずっと紙での日記を書き続けている。1年に1冊のペースで手帳を消費するので、つまりもう合計15冊くらいの紙の束が、私の実家や自宅に転がっているわけだ。たまに読み返すとくだらないことばっかり書いてあって面白いので捨てる選択肢は今のところないけれど、親にも友人にも恋人にも読まれたくないことが書いてあることは間違いないので、この紙の束、万が一私が突然死んだらどうなるのだろう。ま、いっか……。

昔の日記を読んでいて面白いのは、34歳の今の私が、25歳前後の私が予想していた「将来の自分」の、だいたいそのままの姿であるということだ。会社に勤めながら生活に必要なお金を稼いで+αで文筆業もやりたいと思っていたらその通りになったし、基本的には慎ましやかに読書中心の毎日を送りたいと思っていたらこちらもその通りになった。もちろん予想していた通りにはいかなかった部分もあって、「年収もうちょっと高めの予定だったんだけどな〜」とか「家賃もうちょっと高めの家に住んでる予定だったんだけどな〜」とか「30代のうち2年くらいは海外で生活している予定だったんだけどな〜」とかはあるけど、25歳の私に今の私を採点させたら、満点ではないけど及第点ってところではないだろうか。

今回語らせてほしいののは、ディーノ・ブッツァーティ『待っていたのは』におさめられている短編、『夕闇の迫るころ』。主人公が屋根裏で過去の自分と出会ってしまうという、ちょっと奇妙な物語だ。

子供の頃の理想の自分はどんなものだったか

ディーノ・ブッツァーティは1972年に亡くなったイタリアの作家で、『待っていたのは』は、15の作品からなる短編集である。ブッツァーティの作風はフランツ・カフカに似ていると言われていて、『待っていたのは』も、幻想的で不条理な物語が多い。『夕闇の迫るころ』は、この短編集の冒頭を飾る作品だ。

さきほど紹介したとおり、主人公のシスト・タッラは自宅の屋根裏で、35年前の子供の頃の自分に出会う。シストはその日、巧妙な術策で前任者を失墜させ、会社の財務部長に任命されたばかりだった。「お金持ちになったよ」と報告すると子供の頃の自分は嬉しそうな顔をするものの、しかし「じゃあ、さぞすてきな馬だろうね!」と言われ、シストは混乱する。シストはすてきも何も馬など持っていないし、そもそも子供の頃とは時代が変わっていて、今はもう馬は交通の手段として用いられることはない。シストは子供の頃の自分を愚かだと思う一方で、子供の頃の自分が今の自分に失望していることを感じ取る。気がつくと子供の頃の自分は消えていて、シストは暗い屋根裏部屋に一人残されていた……と、そういう話だ。

子供の頃のシストは「すてきな馬を持つこと」が将来の理想の姿の一つであったわけだけど、さて私たちはというと、子供の頃、若い頃、どんな自分になれていたらすてきだと思っていただろうか。そんなことを振り返らせてくれる短編だ。そして、もしも今の自分が昔思い描いていた自分とはかけ離れたものだったとしても、子供が消えたあとの屋根裏を叩く雨の音が美しいので、ま、いっか、と思える。一般的には読後感が良くない小説に分類されるはずの短編なので、そんな感想を持つのは私だけかもしれないが……。